“対等な恋愛”なんて幻想だ! ムダこそ愛おしい人間の恋愛

 南原の同期である神宮寺教授(小林聡美)は、第10話でこんなことを言っています。

「男女平等って言うけど、平等なんて変だもの。
だってもともと、作りが違うんだから。
お互いの長所と欠点を助けたり、助けられたり、そうやって男女は平行線でやっていくしかないんだと思う。
まあうちもね、いろんな面で彼より私のほうが上だけど、身長だけは下。
そのただひとつ、どうやっても勝てない下がある、ってことが心地いいの。
彼に見下ろされていると、ときどきどうしようもなく幸せな気持ちになる」

 男女平等こそ正しくて、お互い対等な関係こそ理想的。
私たちはそう思っていますが、自然界のオスメスや、現実の恋愛はどうでしょうか。
身分にしろ、経済力にしろ、セックスにしろ、どちらか一方がもう一方を支配したり、振り回したり、依存されたり、なんらかの力関係があるからこそ、お互いを補い合ってうまくいっているとも言えます。
平等で対等なんて、実は幻想にすぎないのです。

 しかしこのドラマは、遺伝子や本能を踏みはずしてしまった人間の恋愛を、ムダだと否定しているわけではありません。
むしろ、そういったムダなことで悩むあわいにこそ、人間の可能性と愛おしさがある。
それが、本作のメッセージです。

仁子「人間って、あきれるほど不器用な生きものなんだから。
どうでもいいことを難しく考えたり、悩んだり、ムダなことばっかり。
遺伝子を残すためだけに生きていたらどんなに楽か。
(中略)
でも、もしかしたらそんなムダなところに何か、宝物がある。
……なーんて思っているんですけど。どうなんでしょうね」 (最終話より)

 他の生き物から見れば、人間の恋愛なんて、どうせ不自然で不合理でムダな営み。
だったら、男と女はかならず対等な恋愛をしなければいけない、結婚しなければいけない、子供を作らなければいけない……そんな思い込みや呪縛から逃れて、もっと好き勝手に自由な恋愛をしてもいいんじゃないでしょうか。

 『不機嫌なジーン』は、そんなふうに思わせてくれる、なかなかにご機嫌なドラマなのです。

Text/Fukusuke Fukuda