わたしが恋人に求めた条件
年齢や状況によって、理想の恋人像って変わってきますよね。
若い頃は、一緒にいてドキドキして楽しい人。
結婚を意識し始める年齢になると、一緒に生活することが想像できる人や、収入の面で安心できる人。
恋愛から縁が遠くなったり、こっぴどい別れ方をしてメタメタに傷ついた後は「そばにいて、わたしのことを愛してくれさえすれば、誰でもいい」と思ったり……。
前にも書きましたが、わたしの場合は、20代頭でエロライター/脱ぐ人になることを選んだため、「エロいことを仕事にしているわたしを認めてくれる人」が、避けては通れない恋人の条件となりました。
それに加えて、先週書いたように、わたしのことを「可愛い女の子として扱う人」ではなく、「人間として興味を持ってくれる人」を求めていました。
ところがある時、「認めてほしいとか人間として興味を持ってほしいとか、期待するほうがおこがましかったのかもしれない。所詮、人はひとりで生まれてひとりで生きていく生き物……」とネガティブどん底モードに入ったことがありました。
その時に考えたのは「酔いつぶれたわたしを、抱えて帰ってくれる優しさと体力のある人」でありさえすれば、あとはもう何も期待しないことにしよう、ということでした。
けれども、その絶望じみた諦めは、大間違いだったと思います。
興味をなくすと興味をもたれない
「酔いつぶれたわたしを抱えて帰ってくれさえすればいい」と思っていた時に付き合った人とは、全然うまくいきませんでした。考えてみれば当然のことです。だって、そもそもわたしが、相手を「自分に優しくしてくれる」「体力がある」って点でしか評価していないのですから。
相手が何かを訴えかけてきているのに、「はいはい、わかった、わかった。あなたは酒飲んで潰れそうなわたしを、なんとかして家に送り届けてくれればいいから」って心の中で思っていたわけです。これって、相手の男性に、人間としての興味を完全に失っている状態です。
別の例を挙げてみます。異性にヤリ逃げされたことに傷ついたり、腹を立てたりしている人が、相手を「あの租チン」とか「あのユルマン」と悪態をつくのを、たまに見聞きします。
そうした、相手の人格を無視し、モノ扱いするような発言を聞くたびに、自分が「穴」や「竿」として扱われると、相手も同じように貶めたくなるものなのだな、とわたしは思うのです。
それとまったく同じことで、「誰でもいい(=取り換え可能)」という投げやりな態度で人と付き合うと、相手からもまったく同じような扱いを取られるのではないでしょうか。
「人間として興味を持ってくれる人かどうかを見抜く力」というものがあるとすれば、それは、「自分が相手に人間として興味を持つ力」なのだと思います。それは言い換えると、相手をちゃんと愛するってことでもある。
「酔いつぶれたわたしを家まで届けてくれる便利な付き人」とか「セックスがいいだけのオチンチン」とか「金だけはあるATM」と位置づけている限りは、相手からも「面倒くさいけどとりあえずヤラせてくれる女」や「家政婦」や「付き合うのはいいけど結婚相手にはちょっと」なんていうふうに、立場を勝手に決められてしまうのではないでしょうか。
自分が相手を「取り換え可能」だと思っている限り、相手もまたこちらのことを「取り換え可能」としか見てくれないのだと思うのです。
Text/大泉りか
初出:2018.08.11
次回は<好きで結婚したのに喧嘩する理由がわかる「ドキュメント・幼児連れの外食」>です。
子どもが生まれるまでは、喧嘩するよその夫婦を見て「愛し合って結婚したはずなのに……」と思っていた大泉りかさん。しかし、何をやってもうまくいかないある日、夫婦喧嘩をしてしまう理由に気づかされました。