かっこよすぎてはイケナイ?

このモヤモヤに対する反発心には随分と翻弄された。女の気配を消してでもなめられてたまるかと捻くれた。
少年みたいな少女でいられた10代とは違う。ここに存在する私は、紛れもなく一人の大人の女性なのだ。かっこよく生きたい、と言っても「いわゆる男勝り」になりたいわけでも「いわゆる高嶺の花」になりたいわけでもない。私という表現の全てを少しも奪われたくない、それだけなのだ。

もう何も偽りたくない! ありのまま抜きん出てやる!
そう開き直ったからなのか、自然と落ち着いたからなのかは謎だが、「まるくなった」「笑顔が増えた」と付き合いの長い同業者に声をかけられることも増えた近年。
もともと私はよく笑う人間だった。それすら意識的にコントロールしてきたことにも同時に気がついた。

さらに、ヒントを得たのは「もっと取っつきにくい人だと思ってました」「怖い人かと思ってたけど笑顔で接してくれて安心しました~」と出会うファンや同業者(ほとんど男性)からの「ギャップ賞賛」の言葉。
これを受け続ける内に、ハッとした。ギャップを喜んでいる彼らは今ようやく、安心しているのだと。かっこよさで張り合いに来るようなスタイルの私に、彼らも「奪われる恐怖」を感じていたのではないか?
ステージ上では見られない私の普段の笑顔は、彼らにとっては恐怖の対象が武器を捨てた、くらいの安堵に値するのかもしれない。

なーんだ。「どんだけ怖がってんだよ!!」(笑)

振り回され続けた過去の自分は棚に上げ、目の前の相手と笑った。
取って食ったりしませんよ…。
その時ふと思った。スイミーであれ、とは、俺を食わないでくれ、だったのかもしれない。

だってかっこいいんだもん

かっこよさは誰のもの? 貴方のもので私のもの。
可愛さは誰のもの? それもまた、貴方のもので私のもの。私はそう考える。

「椿ちゃんが男の子だったら絶対恋してた~」と女友達に言われるのも嬉しい。
「そこらへんの男よりお前はかっこいい」と男友達から言われるのも嬉しい(そこらへんの男、が何なのかはピンと来ない。笑)。

私が心から尊敬する数少ない人物には、男性もいれば女性もいる。本当にかっこいい人だ。
そして彼らはいつも先を行く。いつも前に出るのだ。しかも私を押し上げようとする。誰かに下がってもらわなきゃ前に出れない人なんかじゃない。

後方の世界が小さく見える。自虐が謙虚になる世界も、自己犠牲が美談になる世界も、なぜか己の人生上で三歩下がる世界も。

前に踏み出す。“私”である為に。

パンチライン、足りてますか?

Text/椿

次回は<“男”も“女”も嫌い。人間大好き。/ラッパー椿>です。
「フィメールラッパー」として紹介されることも多い椿さん。でもなぜ「女」ということをわざわざ示さなければいけないのでしょう?恋人と喧嘩したとき、仕事がうまくいないとき、その原因を性差に求めたくない!当たり前の個人として人と向き合うには。