人生を紡ぐパンチライン

“男”も“女”も嫌い。人間大好き。/ラッパー椿

「フィメールラッパー」として紹介されることも多い椿さん。でもなぜ「女」ということをわざわざ示さなければいけないのでしょう?恋人と喧嘩したとき、仕事がうまくいないとき、その原因を性差に求めたくない!当たり前の個人として人と向き合うには。

人として人間を愛したい椿の画像

 どうも! ラッパーの椿です!

 連載2回目にして、斬り込んだ今回のテーマ。
ギョッとした方もいらっしゃるかと想像しますが、私が生きてきた中で感じ続けた「最大の生きづらさ」と言っても過言ではない。“男”“女”、その枠組みとは?

 フラットになることでようやく呼吸がしやすくなった一人の人間として、言葉にしたいと思う。

心当たりがきっとある

 まずは、タイトルにギョッとした貴方にも想像してみてほしい。

「子供と接するのが苦手で、子供が騒いでると煩いなぁとさえ思っていたんだけど、自分の子供が生まれてからは嘘みたいに子供好きになったよ、可愛いくてしょうがない」と友人が語ったとする。

 あるいは、新しい恋人から
「昔知人に裏切られて、人を信用できなくなった。人間はみんな卑怯な生き物だと思っていた。けれど、なぜか貴方は好きだし信用できる唯一の人」と打ち明けられたとする。

 奇抜な言い草だと感じるだろうか?
きっと、自然な感情の変化だと微笑ましく思ったり、今まで出会ってきた人間と私は違うんだと喜ばしく感じられたりするだろう。

  いずれも「子供」「人間」という大きすぎる主語に対し、わずかな実感と経験が定めた“思い込み”なのではないだろうか?
しかし、その思い込みや決め付けを破壊したその先に、本来の豊かな「個人」が結びつくとしたら、様々な「例外」と遭遇する度に大きすぎる枠組みで「個人」を語ることは無茶だと気が付く。

  だからこそ、自分自身の心の節穴を深めてしまう前に、「例外」たちと出会う人生の旅に出ることを勧めたい。

 というのも、私自身が少女時代、ある先輩に「人間なんて汚いですから」とぼやいたところ、「みんながみんな汚い人間なはずないやろ! もっともっと色んな人間と出会ってから言え!」と叱られた経験がある。
「人間は~」なんて一緒くたにされた事に不快感を抱かれたわけだが、怒ってくれた彼に今でも感謝している。心の決め付けがどれほど視界を曇らせていたか、その後の人生で思い知れたから。