毒を盛ってクールに立ち去る。そんな表現だっていいじゃない/椿

他人は変えられない?

ラッパー通履きさんの画像

「他人は変えられないが、自分は変えられる」
そんな提唱を耳にする機会は何度もあったし、だいたいは私も納得して頷いてきた。

変わりたいと願う自分を鼓舞するタイミングだったり、他人を変えようと試みて独り善がりになってしまっていると気付いた時に、ハッと気付かされる言葉である。

人は人、私は私。
その分別や主体性を持つことはとても重要だし、本人による意思決定があるのに他人が変えようとするなんて、おこがましいことだとも思う。
だけどふとした時、「あれ?……私がこの意見を持つようになったのって、誰の影響だっけ……?」と、忘れて過ごしていた“自分の中に生きる他人”に突然再会することがある。
誰かからの影響は無意識に根付いていた。「これは純度100パーセント自分発生の考えだ!」なんて胸を張れる代物を見つけることの方が難しいくらいに。

自分では考えたことも思いつくことも無かった。そんな私の余白に訴える他人の声が届いたとき……人は案外柔軟に取り入れて変わっていけるものなのかもしれない。
だって、たまたま耳にしたりSNSで目にした小さな声をきっかけに、二度と使うことを躊躇うようになった言葉や、やめようと誓った行動が私にもあったから。

だから、たとえ伝わった実感がすぐに得られなかったとしても、“伝えることを諦めない”ことは必ず意味があると信じている。

「NO」を示すことは無意味じゃない

伝えたい事柄に痛みや怒りが伴う時は特に、伝えることにすら疲弊してしまう。
つい最近も、そんな経験をした。
それは週末のあるライブイベントで起こった事だった。

とある先輩男性と会場で再会した時、すでに先輩はベロベロに酔っ払っていた。
私が挨拶に駆け寄ると、「おー、椿! 綺麗になったなぁ~」なんて調子の良いことを言いながらハグ(ここまでは許容範囲)、……そしてあろうことか、その流れのまま突然私のお尻を鷲掴みにした。

……正直、殴ってもいい案件だと思う。

だけど、相手はベロベロに酔っ払っている。
まずは冷静に拒絶を示すことで場を保った。

しかし、その後彼の行動を注視していると、別の先輩女性にも同じことをした。
私は咄嗟にその腕を掴みに行き、「何してるんですか」と真っ直ぐ刺すように睨みをきかせた。

……私に咎められたことに一瞬ギョッとした表情を浮かべたが、それすら本人は酔って覚えていないのかもしれない。
それでもいい、意識の片隅でもいい。
願わくば、私の静かな怒りの破片が、ひとかけらでも記憶の中に刺さっていますように。

さきほどの先輩女性はというと、
「気持ち悪いけど……、しょうがないよ、オジサンだから。(笑)」
だそう。
うーん……しょうがないのかなぁ?
やっぱり私はモヤモヤする……。今でも思い出すとぐったり憂鬱な気分になる。

「NO」が伝わった実感が無くて、どうしようもない怒りに支配されそうな時、いつも心で葛藤する。
もう一歩、骨を折ってでも伝えるべきなのか、「しょうがない」と見切りをつけて平穏を保つべきなのか、と。でも「伝える」を通り越して「怒り」を爆発させる結果になれば、いまの現状、傷を負うのはこちらなのだ。
だから、痛みや怒りを伴う場面で、何かを伝えたい時は、“どう怒れば伝わるのか”に思い悩むよりも、ただ“怒った人がいた”という記憶を残したり、“はっきりした拒絶”を経験させておくことに重点を置いている。「NO」を示すことが出来た事実だけで、一歩前進した、と頷ける気がするから。

後でじわじわ効くように、毒を盛ってその場を去るのもクールだと、私は思う。