三歩下がらない「私」であること/ラッパー椿

前に踏み出そうとする女性の画像

はじめまして。ラッパーの椿です!
巷では「フィメール(女性)ラッパー」と呼ばれますが、そのように自分で名乗ることはありません。私は26歳の女性で、現役のラッパーで、元型枠大工で、福岡出身の、現在は東京で生きるフリーター。
捻くれた挨拶のようですが、あくまで右手を真っ直ぐ差し出すように綴ります。

ラッパーとして作詞を行う際、どんな楽曲においても通底する私のテーマは「生きること、死ぬこと」
人間臭いリアルな表現を追い求め、今のところ母でも妻でもない私の楽曲は「女性ならではの~」という印象をあまり持たれない。それは私にとって自然なこと。
しかし、どんなに“私は私”という実感のもとオリジナルを表現しても、「もっと女性ならではの歌詞を書いてみたら」「男でも書ける歌詞」などの助言(のつもり?)の言葉やジェンダー観の押し付けを受けることは少なくない。

ほとんどが男性で構築された土壌で、「紅一点迷子」に陥りそうになった経験から、言葉を伴侶に自分らしく突き抜ける生き方を考えてきた。

紅一点と呼ばれ続けて

「紅一点」、その言葉の意味は一つ。ただ一人、女性であるということ。それは紛れもない客観的事実である場面でも、経歴に由来するキャッチコピーとしても頻用されてきた。
型枠大工にしてもラッパーにしても、極端に男性が占めている職種をサバイブして来たために「紅一点」と呼ばれることは致し方なく、むしろ言葉の印象としては「かっこいい!」とさえ感じていた。

でも、いつからだろう? 全体を構築する黒色、から弾き出された赤色の私。そこに寂しさを覚えたのは。まるでスイミーのようにあれ…紅一点には紅一点の役割りがある…そんな声が聞こえてくるような、かっこよさや強さで張り合わせない空気。

かっこよく生きたい、かっこいい私でいたい。でもかっこよすぎるとイケナイ?
それは冒頭の「女ならでは~」を受け入れることなのか。
とことん抗ってマッスルポーズを決めてみせれば良しとされるのか。
紅一点迷子となった私は自分自身と葛藤した。