最近「やらかしたかな?」と思った夫婦間の出来事/カレー沢薫

今回のテーマは最近「やらかしたかな?」と思った夫婦間の出来事だ。

今年は夫が新年の集まりで甥姪たちと鬼ごっこをして負傷、正月2日から松葉杖生活がスタートするという波乱の幕開けであった。
今年は例年以上に乱世の予感である。

これは甥姪たちが今年から中学生とは思えぬほど「鬼ごっこガチ勢」だったせいもあるが、40半ばのオッサンがそんな鬼プレイヤー全盛の若人とタメを張ろうとしたのも原因である。

このような、己の肉体を過信しすぎた負傷というのは老あるあるである。
「昔はできた」という理由で、屋根に上ったり、庭の木を切り倒そうとして、転落や流血沙汰となり入院、そこから足腰が立たなくなり寝たきりという黄金パターンをキメがちなのだ。

台風の日に田んぼを見に行きたがる老も、若いころに災害時田んぼ確認RTAで優勝したなどの成功体験があるのかもしれない。

多様化により「年齢に囚われない生き方」が提唱されているが、肉体はどうあがいても衰える。
年齢に囚われないのと己の衰えを自覚できないのは全く別だ。

いくつになっても挑戦することは大事だが、トライの中にもできることと絶対にできないこと、そして自分はもちろん周囲に迷惑をかけるような「リスク」がないか見極める力は必要である。

それをせずに、コンセントの穴に針金を突っ込んでみる2歳児のような果敢さを見せつけると、体は老で頭脳も老、気持ちだけが若いつもりでやることが未就学児、というコナンもどこから手をつけた良いか迷うレベルのモンスターであることがバレてしまう。

老が若より優れている部分があるとしたら、数々の失敗という「経験」、そこから学んだ「判断力」である。

若のように落石を瞬発力で避けられないのだから、判断力で最初から落石があるところには行かないようにしなければならない。

私は肉体の衰えについてはかなりの判断力と謙虚な姿勢を持っているため、体を使う場面ではでしゃばらず若人に華を持たせるようにしている。
だが高齢化社会により、若手に譲りたくても未だに自分が一番の若というシーンが出てきてしまうのが悩ましい。

しかし、自分の「存在の老化」を自覚できているかというと怪しいところがある。

自分が中年であり、若人とは「違う存在」であることを自覚できず、明らかに「ここからは若手だけで」という空気のところに「俺も仲間」という顔で入り込み、最後のカラオケにまでついていくような真似をしていない自信がない。

こういう場において目上側が「俺は気にしない、無礼講で行こう」と言うのは露出狂の露出側が悲鳴を上げている側に「俺は気にしてないからお前も気にするな」と言っているようなものだ。

本当に年齢や立場関係なくフラットな関係を築きたいなら、平時からティーンのバイトに呼び捨てされても「フレンドリー」と捉える必要があり、飲み会の時だけフラットにしようとしても無理である。

年齢や肉体の衰えは自覚できても「ポジションの老化」はなかなか自覚できない。
まだ社長とか部長とか役職持ちなら己の立場をわきまえやすいのかもしれないが「年齢と勤続年数だけ重ねただけの平」をやっていると、自分を永遠に新入社員の輪に入れる存在だと勘違いしやすい。