「若く見えるのは良いことだが、若作りはイタい」という風潮があるように思う。
服装や髪型、メイクは、私たちの見た目年齢に大きく影響するところがあるけれど、少しでも顔や体型との間にズレが生じればそれは違和感となって、身につける人を若く見せるどころか、「頑張って若作りをしている」印象になる。

頑張った若作りはイタい。いつまでも若いつもりでいるのもイタい。そんな風に、わたしは自分を何重にも縛り上げていた。

わたしたちには「若くもないが、ババアでもない」期間がない。若さを失えば即・ババアだ。そう勝手に評しているのは外野なのだが、その外野の意見がじわじわとわたしたちの内側に染み込んで、行動を制限してしまう。そういう息苦しさが、若い女の子たちにまでババア宣言をさせている。『若年性ババア症』とでも言うべき、ちょっとした病なのかもしれない。

最強のババアへの道のり

25歳の誕生日が来てすぐ、若くない自分にはもう似合わないと思った服を、まとめてゴミに出してしまった。お気に入りのワンピースも、未練を残したまま捨てた。

でも今は、あの頃捨てたものよりも鮮やかな色の服たちをまた買い揃えている。もう着れないと思うデザインもたしかに増えているが、そういうものを着たいとも思わなくなった。「趣味が変わった」の範疇だ。
好きな装いをする権利は加齢で失われたりしない。服装だけではなく、25歳のわたしが思っていたほど、年を取ったらできなくなってしまうことは多くなかった。

世間の『イタいおばさん』評価には、自由を奪う力はない。自由を奪えるのは自分の意思だけだ。自分が『ババアだからできない』と言った瞬間に、本当に無力なババアになるのだ。だから、20歳の自称ババアは無力なババアなのだと思う。

ババアは辞められるとも思うのだ。自分がそう思わなくなった瞬間に。そしていつの日か、『ババアだができる』と胸を張る最強のババアにわたしはなりたい。

25歳、当時悩んでいたことが無駄だったとは思わないが、あの頃捨ててしまったヴィヴィアンウエストウッドのブラウスは、取っておいてメルカリに出すべきだったと後悔している。

Text/白井瑶

次回は<「容姿が可愛くない女の子」がスカートを履くことについて>です。
幼い頃、スカートを履かない女の子だった。それは「可愛いものが苦手」というより、「可愛いものを身に着ける自分」への嫌悪感があったから。「普通の女の子」になりたくて「普通の女の子ファッション(=スカート)」を選んでいた白井瑶さんが、本当に欲しかったものは。