「わたし、手のひらで男を転がしてるの♡」その手法は正しかったのか?

男、手のひらで転がせるんだっけ?

女性の手のひら Public Domain Pictures

14歳くらいから、男子への接し方がわからなくなった。単に異性を意識しだしただけなら可愛かったのだけれど、わたしの悩みは「どうすれば普通に生きられるのだろう」という、かなり切実なものだった。

その時考えていた“普通”とは、“ブスと言われない・いじめられない・ハブられない”という、「~ない」状態である。努力の末に何かを得たいのではなくて、マイナスをゼロにしたかった。「どうしてこんなに努力をしなくちゃ、普通に生きられないんだろう」と思っていた。

そんなわたしを救ってくれたのは、「男は手のひらで転がすもの」という考え方だった。「男は単純なんだから」「コントロールしているのはこっち」と思うと、卑屈になる必要もない気がして心が安らいだ。

男性と戦わない生き方

セクハラを受け流していたのもそうだし、あらゆる場面でいろんなことを笑って許したわたしのことを、「大人」だとか「わかってる」「面倒くさくない」と言ってくれる男性たちがいた。そういう評価が誇らしかった。

男性と戦うなんて馬鹿らしいと思っていた。「真正面から戦ったって勝ち目はない」という諦めもあったし、下手に出ながら手のひらで男性を転がすほうが、精神的にも楽だった。たとえ失敗しても気まずくならないし、何より向こうが気分を害さない。よって、わたしの立場が脅かされる心配もない。

そうやって相手の機嫌を取りながら、相手を見下していたんだと思う。「どうせ言ってもわからない」「女に意見されたら気分を害すような、めんどくさい人なんだから」という見下しだ。
「相手に人間扱いされていないなら、こちらも人間として扱わない」という思想をキレイに包んだ結果が、わたしの「手のひらで転がしてるの♡」だった。ただ、当時は相手を見下している感覚はなかった。むしろ相手を立てているつもりだった。大人な自分には、それができるのだと思っていた。

大学を出て、最初に入った会社はよくある中小企業だった。配属先の部署の新卒は、わたしを含めて2人だけ。同期はすごく正しい子だった。趣味の悪い冗談や、仲間内の甘えた仕事をその都度咎めた。当然、何度も職場で衝突を起こしていたし、可愛がられているとは言い難かった。何でもへらへら流すわたしは、そういう態度を「不器用だな」と思っていた。「もっと大人になればいいのに」とも。
「適当にあしらえばいいんだよ。もっと楽に働けるよ」と本人に言ってしまったこともある。「そういうことじゃない」と言った彼女の言葉の意味を、その時はよくわからなかった。
でも、数年経って気づいたのだ。相手に期待をせず、見下しながらすべてを諦め許していたわたしの態度は、決して“大人”ではなかった。