何もない私はこのままで大丈夫なの?その答えは、身近にあったりする

私は何者なんだろうか?

旅行中に自分のアイデンティティに悩むカメラを構えた女性の画像 Lisa Fotios

ときどき、私は何者なのだろうと思うことがある。
自分の置かれている環境から少しでも離れてみると、自分を支える軸みたいなものが、根っこみたい部分が、少しずつブレていく。それから、不安になる。このままで、大丈夫なのだろうかと。今までも、大丈夫だったのだろうかと。
なんだか、自分が何も持っていないような、誰の記憶にも残らない、小さくてつまらない人間であるように思えて、焦りに似た感覚が胸の奥の方から襲ってくる。

GWはロシアに行っていた。イルクーツクという、世界遺産のバイカル湖のふもとの街。そこで知り合った人は、ロシア人の両親を持つ、オーストラリア人だという。8歳くらいまでロシアで過ごし、それから大人になるまで、オーストラリアで生活をしていたらしい。
オーストラリアとロシア、2つの国籍を持っているからこそ、ときどき自分がどちらの国の人間なのかわからなくなることがあって、何かがわかるかもしれないと思い立った彼女は、自分のルーツとなるロシアを何カ月かかけて、旅をしているようだった。

同じくして、ブリヤート共和国(バイカル湖の南東部に位置する)というところから家族旅行できたという13歳の女の子と出会った。彼女は日本のアニメが好きで、私よりもずっと日本のアニメに詳しくて、なんだかとてもいたたまれない気持ちになり、簡単な質問にすら答えられない日本人の自分を少し恥じた。ロシア人の彼女より、ずっとアニメに近いところにいて、その気になれば色々なものを見ることができるのに。言葉も、おそらく感性みたいなものも同じだから、理解もしやすいはずなのに。

オーストラリア人の彼女のように、自分の国籍や人種に疑問を持ったことはないけれど、日本に関する簡単な質問に答えられない私は、ときどき「自分は、本当に日本人として大丈夫なのだろうか?」と自信をなくす。そして、人間関係を1からスタートさせなければならない環境に身を置いたとき、「私は、一体どんな人間なんだろう?」と不安に思うことがある。

私は、きっと日本のことを何も知らない。日本だけではなくて、世界のどんなことも。
何も知らない私は、どこにも所属できないで、何もない空間に宙ぶらりんになっているような、そんな感覚になっていた。

日本人の両親から生まれて、名前を付けられて、ずっと日本で育ち、日本語を話す。だからきっと、日本人なのだろう。でも、日本で生活をしている間は、そんなこと疑問に思ったこともない。どういう条件が揃っていれば、私は自分のことを日本人として認めてもいいのだろか。