「誰かが悪い」と思えば、楽だけど…原因がない「悲劇」の向き合い方

人は合理的には恋愛できない byDaria Shevtsova

「30代になっても独身の人間は、人として問題がある」。そんなことがまことしやかに囁かれていた時代が、たしかにあった。グルメすぎるのが問題だと言われたり、はたまた食に関心がないのが問題だと言われたり、もっと自分の意見を持てと言われたり、いやいや自分の意見を持ちすぎるなと言われたり。この手のやつは、まあ言いたい放題である。

しかし蓋を開けてみると、これらの言い分のカラクリはけっこう単純だ。独身も既婚も関係なく、人間は多かれ少なかれ、みんな問題を抱えている。「いい年なのに独身な者には問題がある」と思うのは、生存者バイアスの逆というか、独身バイアスみたいなもの。かつてよく囁かれていたあの言い分は「日本人の犯罪者は全員、米を食べる習慣があった!」っていうくらい、認知の歪みを含んでいると私は思う。

……なんか変な話から始めてしまったが、今回読むのは瀬戸内寂聴の私小説『夏の終り』だ。主人公の知子は、妻子ある男・慎吾と、8年間にもおよぶ同棲生活を送っている。慎吾は、知子の住む家と妻のいる家を、平等に行ったり来たりするのだ。

複雑に絡み合う四角関係。誰が悪いのか

おそらく世の不倫の大半は、妻側は愛人の存在を知らないだろう。だけど『夏の終り』においては当然ながら、8年間にもおよぶ情事を隠せるはずもない。妻側も知子の存在をちゃんと把握していて、こちらの家に夫宛の手紙を送ってきたりする。不倫となると通常は夫とその相手が責められがちだけど、8年間も不倫をし続ける知子と、8年間も愛人の存在を容認し続ける妻と、「人として問題がある」のはどちらかというと、ちょっとわからない。もちろん女たちだけではなく、2人の間を平等に行ったり来たりする慎吾にも、人としてかなり問題がある。さらにいうと、知子には慎吾以外にもう1人別の浮気(?)相手・涼太がいるので、彼らの関係はかなり複雑だ。ソ連旅行から帰った知子を、慎吾と涼太が、仲良く2人で迎えに来たりする。

涼太は、「色恋なんか二人の責任だ、どっちだって加害者で被害者だ」と言う。この複雑に絡み合った関係は、知子が悪いのか、慎吾が悪いのか、慎吾の妻が悪いのか、それとも涼太が悪いのか。全員に問題があるとも思えるし、全員問題はないとも思えるし、とにかく涼太の言う通り、きっと全員が加害者で、全員が被害者なのだろう。

これは決して、男が浮気したときに「私にも悪いところがあったと思います」と反省する良妻でいろという話ではない。島本理生さんの『ナラタージュ』の回でも似たようなことを書いたけれど、誰かふしだらな、倫理観を欠いた悪い人間がいて、そいつが悲劇を引き起こすーーとは、限らないのだ。誰も悪くなくても、何も原因がなくても、事の自然な成り行きとして、悲劇的な結末を迎えてしまうことがある。むしろ、全員が真面目に懸命に生きているからこそ、その悲劇が訪れてしまうことだってあるのだろう。