「あいつ、もう食ったよ」は、最愛のパートナーにこそ使って欲しい! 性と食を考える『性食考』

性と食を考える『性食考』 by Daria Shevtsova

「あいつ、もう食ったよ」。とーっても下品な言い回しであるが、女性とセックスする機会を多く持つこなれた男性たちのコミュニティでは、今でも少なからずこんな言葉が飛び交っているのかもしれない。しかし、よくよく考えてみるとちょっと不思議ではないか。なぜセックスしたことを、彼らは「食べた」と表現するのだろう。

そんなことをわざわざ真面目に考えないでよろしい! と、思う人もいるかもしれない。しかし、このことをわざわざ真面目に考えた本が、実際に存在するのである。今回読んでいきたいのは、民族学者である赤坂憲雄さんの、その名も『性食考』だ。

正確にいうと、「あいつ、もう食ったよ」という表現はこの本には出てこなくて、私が勝手に「そういえば、アレもそうだよな!?」と連想したものである。でも、この本が扱うテーマと「あいつ、もう食ったよ」は、根幹が同じであることはおそらく間違いない。

品のない例をあげてしまったが、『性食考』は、洋の東西を問わない様々な民話や伝承を読み解きながら、食べることとセックスの、グロテスクな関係を考えていく。

「あいつ、もう食ったよ」は原始的な感覚に基づく?

たとえば、日本のグリム童話と言われている『聴耳草紙』には、こんな話があるらしい。

あるところに夫婦がおり、夫は、妻の織った曼陀羅を遠方の町に売りに行った。その間に美しい妻のもとに何人もの男が訪れたが、いずれも拒んでいると、ある悪い男が「お前の夫はよそで妾を持っているよ」と嘘をつく。精神的に追い詰められた妻は、なんと、川に身を投げて死んでしまう。妻亡きあとに帰ってきた夫は、もちろん、その死を嘆き悲しむ。そして、川に浮かんだ妻の屍肉を、葉に包んで食べたという……。

現代人の感覚からすると、「嘆き悲しむのはいいとして、なぜ屍肉を食べる!?」と思うだろう。しかしこれは、「私はあなたを忘れない」という究極の性愛のかたちかもしれないと、著者の赤坂さんは語る。

食べることは、消化し、それを自分の体の一部にすることだ。これが「一緒になる」の究極のかたちだと、確かに考えられなくもない。同じように、セックスは自分と相手の遺伝子が一緒になったものを創造し、上手くいけば、それは出産というかたちで体の外へ送り出される。

いや、似てるは似てるけど、ちょっと無理やりというか、こじつけ感がない!? と、思うかもしれない(私は思う)。しかし、ヨーロッパでもかつてミイラをすりつぶしたものを薬として重用していたし、アフリカにもオセアニアにもカニバリスムの風習がある。夫が妻を食べる話もあれば、妻が夫の持ち帰ったなんらかの死体を食べて妊娠する話もある。死者を食べて取り込むことは、その力を自分の一部にすること。セックスをすることは、相手を自分の一部にすること。どちらも官能的であり、また、少し暴力的でもある。

「あいつ、もう食ったよ」は考えれば考えるほど不思議な言い回しなのだが、それが下品な表現であるだけに、もしかしたら、とても古代的で、原始的な感覚が潜んでいるのかもしれない。