「妾」の法的身分がなくなった明治期

春画 1785年 鳥居清長《時籹十二鑑(いまようじゅうにかがみ)》妾宅の座敷で若者と交わる妾。若者は誰か見ていないか気にしている。

石島亜由美氏の『「夫」「妻」「妾」近代的主体とジェンダー文化の構築』によると、1871年に明治政府により頒布された最初の刑法典である刑法『新律綱領』で、「妾」は「妻」と同じく二等親として法的な身分を有していた。しかしその後十年あまりで「妾」の法的身分は解消されることになり、一夫一婦の婚姻制度が成立した。

河田燐也氏は『日本女子進化論」にて「芸娼妓並びに妾は女子の卑劣の極みであり女性の進化に逆行する」とした。どうやら男女同権であるべき世の中ならば、妾のような存在は時代にそぐわないという見解が明治期に存在していたようだ(女性の進化、とは……??)。

女性が妾になる理由は貧困であったり、結婚生活が順調ではなったなど理由は様々だったが自ら喜んで妾になる者はほぼいなかったようだ。

男女平等を謳い、女性の進化に逆行するとして「妾」を廃止したのだが、「夫の子どもを生む」という役割は実質的に残っていた。旧刑法で妾が生んだ子どもは「庶子(しょし)」とされ、「妾」の制度が廃止されても妻以外の女性が生んだ子どもは、父が認知した場合のみ「庶子(しょし)」と定められた。しかも「妾」が廃止される前に定められていた「男の庶子は、妻の生んだ女の子どもよりも相続順位が優先する」という相続者の法的手続きも変更されず、1898年に明治民法が成立してもそのままこの規定は残されたようだ。

お妾がいる旦那、そのとき妻は、

春画 1802年 喜多川歌麿《葉男婦舞喜(はなふぶき)》男妾も存在していた

お妾を囲うことは仕事で成功した男性のステータスでもあった。しかし、妻が情夫と交わることは許されない。江戸期では妻は夫が嫌で別れたくとも、妻から別れることはかなり難しかった。妻の立場は夫よりも弱く、原則的に女性に離婚請求権は無かったため、彼女たちがどうしても離婚したい場合は縁切り寺へ駆け込まなくてはいけない。離婚をしないとしても、妻が真に愛し合える相手を求めてしまう気持ち自体を責めることはできない。

春画 1773年 磯田湖龍斎《風流十二季の栄花(ふうりゅうじゅうにきのえいが)》夫が寝ている隙に

春画では、妻の浮気を発見した現場を描いているものがある。人々が内面に抱えていた「パートナーへの不満」や「自由に恋愛して楽しみたい」という欲求の裏返しでもあるのではなかろうか。「旦那のちんぽに満たされない」という不満をコミカルに描くことで、「思い通りにならないのが人生だよね。」という教訓めいたメッセージを含ませたのかもしれない。

春画 1826年 歌川国虎《男女寿賀多(おとめのすがた)》性器のモデルとして妾が脚を開いている

明治期における妻と妾の関係はどうだったのだろうか。
石島亜由美氏の『「夫」「妻」「妾」近代的主体とジェンダー文化の構築』で石上氏は明治期において、「妾」という存在は法制度では廃止されても、妾を囲う習慣はなくなることがなかったと指摘している。妻は妾と共存することになる。すると、夫が家長となる家庭内で妻は家を守るという責任があり、妾の始末や世話をする裁量があった。そのため小間使いである妾が家庭内で妻より優位になることはなく、妻は家庭の秩序を守っていたようだ。

子孫繁栄や男性のステータス、女性の進化に反するなど時代の変化に振り回された妾たち。文学や法制度上の立場から妾について書かれていても、お妾ちゃんたちが実際どのようなことを考え、どのように生きていたか本人たちの証言が出てこなかったことに違和感を感じた。どれだけ探しても本人たちの声は見つけられなかった。

《参考文献》
・1953年 阿部真之助「当世うらおもて」
・1946年 富野敬邦 「愛情論」
・1992年 佐伯順子 「近代化の中の男と女:『色』と『愛』の比較文化史」
・1934年 田中香涯 「新史談民話」

Text/春画―ル