ゲームは同じぐらいの温度の人間と
やはりゲームというのは「全員同じぐらい温まっている通り魔」でこそはじめてゲームになるのだ。
それにゲームというのは最初はみんなヤル気でも、途中負けが確定した奴がやる気をなくし、自分の番までジャンプを読み始めると急激にゲーム自体がつまらなくなる。
つまり、温度が低い奴が一人いると全体の温度が下がるのだ。
ならば最初から自分より温度が低い奴とゲームをやって楽しいわけがない。
私の桃鉄に対する温度が2兆度なら、夫は3度であり、向こうが2兆になる気がないなら、こちらが3度になるしかない、つまり「寒い」のだ。
夜の対戦格闘ゲームだって、こちらが波動拳に次ぐ波動拳からの昇竜拳なのに、相手がずっとしゃがみガードで時間切れを待っているという態勢だったら楽しくないのはもちろん「こっちはこんなにしゃかりきコロンブスで遊ぼうよパラダイスと頑張っているのに、何故お前はそんなに白けているのか」と腹が立ってきてしまう。
このように趣味や夜間相撲だけでなく物事に対する「温度差」というのは割と不和の原因になりがちである。
夜のニソテソドースイッチは「じゃあ同じ温度の奴とスマブラしてくるわ」というわけにはいかないが、趣味に関しては、温度の低いパートナーを無理やり「アツくなれよ!」と修造ノリでつきあわせようとするより、最初から同じぐらい殺意を持ったメンバー同士で集まった方が楽しいし手っ取り早い。
「私が好きな物はみんな好きなはず」と思い込むのが危険なように、自分が楽しいと思ったことをパートナーと共有したいと思うのは一見良い事のように見えるが「何故これの良さがわからんのだ」という怒りに変わることもあるし、相手も興味のないことにつき合わされて苦痛を感じる場合も多い。
よって、ちょっと誘ってみて「温度が違うな」と思ったら相手の温度を無理に上げようとするのではなく別の温度が近い人間と楽しんだ方がいい。
私も夫とはゲームに対する温度が違うとわかったため、今はほとんど誘うことがない。
できれば夫も、私の掃除に対する温度がマイナス5兆度であると理解し、これからも誘わないでくれることを願う。
Text/カレー沢薫
夫婦コラムのはずの本連載が、土方歳三への愛を綴った廃人日記として書籍化されました。
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