名前のつかない恋愛に“小さな伏線”をつくる。コロナ禍で会えない時に

「恋の持続」のためにできること

by Ava Sol

名前のつかない恋愛をするのが好きだった。レイトショーをみにいったり、路地裏でキスしたり、仕事や政治の話をしたり、思いつきで温泉に行ったり、でも何か月も連絡しなかったり、たまに会ってセックスをしたり。好きな人とは、「恋人」とも「セフレ」とも「ただの友達」とも言いきれないような、なるべくフレキシブルな関係でいるのが良いと思っていた。そうすれば、関係が終わることもないから。

国内の新型コロナウイルス感染者がまだ1日に1人か2人くらいだったころ、彼とイタリアンを食べに行った。23時過ぎまで平気で店にいられたことを思うとなんだか懐かしい。

遠方から出てきた彼のホテルの部屋に行って、お土産の地酒を受け取ったあと、「このまま泊まっていけば?」と誘われたが、「今日は帰るね」と断った。「あたたかくなってきたらウイルスも死ぬだろうから、また5月くらいに」と別れ、その後は一度も会っていない。

このコロナ禍で、「家族」や「恋人」などの固定的・限定的な関係の人、あるいは近隣に住む人としか、なかなか会いづらくなってしまった。またいつの日か、よくわからない関係の人と、よくわからない酒を飲み、理由のないキスをしたいなぁと思うが、それまで何か月、何年かかるかわからない。では、今このコロナ禍のなかで、恋の持続のために仕込めることって、何かあるのだろうか。

「有限性」と「不確実性」が恋のスパイスになる

去年の春から夏ごろには、「久しぶり、元気?」「コロナ大丈夫?」といったメッセージが過去にセックスした男の人からよく届いた。関係復活のための、いわゆる「ザオラルLINE」というやつだろうか。あまり芸のない内容に、「きっと他の女の子にも送ってるんだろうなあ」と思ってしまう。それでもコロナ前だったら、ちょうど都合がよければ「元気だよ!明日の夜どう?」などと返信していたものだった。「ザオラルLINE」の良いところは、お互いのタイミングが合えば瞬間的なノリで都合よく会えるところだと思う。

すぐに会えないのであれば、内容の薄い「ザオラルLINE」に意味はない。だからむやみに遠くに住む好きな人に連絡できなかったのだが、夏ごろにとうとう「もう半年も会えてないね、さみしい」と送ってしまった。深夜の勢いで送信してしまって、恥ずかしさで送信を取り消そうかとも思ったが、彼から「俺も」と返ってきたときは小躍りするほどうれしかった。どうせすぐに会えないなら、「元気?」とか「大丈夫?」とかより、自分の感情を素直に言ったほうが良いのかもしれない。

その後はたまに「東京はコロナ流行ってる、怖いよ」「もう一生会えなかったらどうしよう!」などと感情むきだしのメッセージを送っている。ちょっと大げさ気味に言っているのは、「私だってずっといつでも東京で待ってるわけじゃないんだからね」という意味もこもめているからだ。いや、実際には彼が東京に来たら万障繰り合わせて会うのだが、隙あらば自分の有限性をアピールするのは恋愛の基本だろう。確実よりも不確実な未来に人は焦がれるものだと思うから。

ちょっと弱気になると、「私の連絡は、相手にとってウザいだろうか」と考えることもある。でもそのたびに、別にウザくてもいいじゃないか、と思いなおす。だってどうせ恋なんて自分勝手なもので、ウザかったり迷惑だったりするのは当たり前なのだから。嫌だったら嫌と意思表示してくれるだろうし、そういう関係性をつくってきた自信がある。結局は、会えないあいだは、会えていたときのことを支えにするしかなくて、だから常に懸命に恋をするしかないのだなと思う。