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  • 2017.12.18

山に登るなんて思ってなかった…はずが気付けばまた登りたくなっている

昔から運動が苦手で、山に登るなんて考えもしなかった姫乃さん。東京でインターネットを通した情報ばかり触れていると「なんでも見れるけどどこにも行けない」という閉塞感に苦しくなります。そんな時に友達に連れられて登山をしてみたら、今までにない充足を感じました。姫乃さんが登山を通して学んだこととは。

永遠なるものたち012
「登山」

山の画像
by Yang Song

 すごい朝焼けを見ました。遠くの駅に向かう電車の中で。オレンジがかった赤い空が、マンションや電柱に一瞬ずつ遮られながら、大きな広い川にずっとずっと反射して、すべてが窓いっぱいにぎらぎらしていました。
 いつも私が眠っている間、世界はこんなにもきれいなことになっているのかと思うと、私の人生まですごくいいものみたいでした。

 長く電車に揺られて、初めての駅に着く頃、空は白んで、朝になっていました。山に囲まれたバス停のベンチに腰をおろすと、腰から頭の後ろまである大きなリュックがどさっと音を立てます。

 山に登るなんて思ってなかった。
何度も思ったことをもう一度思いました。まさか自分が山登りのために休日をつくる人間になるなんて。
 昔から体を動かすのは苦手なのです。遠足の登山なんてただただ億劫で、前を歩いている子のスニーカーと地面をじっと見つめながら、ぞろぞろ歩いて終わりでした。

 リュックから温かいペットボトルを取り出して、両手で祈るように転がしながら、どこまでも広がる山と、寒さに背を丸めて改札へ向かうスーツの人たちを眺めています。

 人間がこうして、自然の中のほんの一部に生きているなんて変な感じです。東京で生きていると、本当は大自然なんてないものに思えます。
 生まれて初めて見るものは、いつでもインターネットからで、多くの写真や映像は現実よりもリアルです。自然も写真や映像の中にあって、まるで世界がコンクリートとインターネットと人間だけで構成されているような気分になります。
 それは私に全能感と閉塞感をもたらしました。足を運んだことがない場所のこともすべて、見て、知ることができるけれど、もうそれで世界が全部だと言われているような感覚。どこへでも行けるような、どこへも行けていないような、あの感じ。

 それが先日、友人たちに連れられて行った山は、私にとって画期的なできごとになりました。
 膝が笑うほどの疲労と、身体中の水分が入れ替わったかと思うくらいの汗。体を動かせば動かすほど、ちっぽけな肉体の限界を感じて、自分が等身大に戻っていくようでした。
 気のおけない友人たちと、くっついたり、はなれたり、頂上に向かって山道に一歩ずつ全身で踏み出していくのも充足感があります。

 草木が生い茂る道はどこまでも続くように思われましたが、突然視界がひらけて、目の前に滝が現れました。その下にはつやつやした大きな岩たちが、休んでくださいとばかりに鎮座していて、汗だくの素足を水に浸しながら、世界でいちばんおいしいおにぎりを食べたのです。岩に寝そべると、大人のお腹の上に乗せてもらった赤ん坊のように、大らかで頑丈な山に甘えている自分を感じました。閉じた瞼に柔らかい日差しが降り注いで、白くみえます。

 それから私は、山に登るようになりました。

日常生活では得られない「頑張っている」実感


 バスを降りると、澄んだ空気がひんやりと頬を包んで、うとうとしていた頭が冴えます。

はやく土を踏みたい。
山はもう目の前なのに、すぐには登れないのがいつも不思議です。登山靴の紐をきつく結び直して、登山道の入り口まで、山を見上げながら、舗装されたコンクリートの道をてくてく歩いていきます。

 入り口の看板を確認して、土と木の根っこでできた上り坂に足を踏み入れると、空気がまた一段と澄んで、ひしひしと山に来た実感がわいてきます。
ああ、山に来た。山に来たなあ。私、山に来たなあ。
自然と顔がほころぶのを感じます。

 ところが、です。隆起が折り重なっている土の上を五分も歩くと、平らな道に慣れきっている体がきつくなり、なんで山になんか来ちゃったんだろう……と後悔でいっぱいになります。

ひい、ふう、ひい、ふう。
まだコンクリートの上を走る車の音が聞こえるのに(つまりほぼ山の入口)、早くも登りきれる気がしません。日が暮れる前に下山できるかどうかも考えると、ますます不安が募ります。もはや、私を山に引き止めているものは、ここまで来るのにかかった移動の労力のみです。いま引き返すのはもったいなさすぎる……。

 不安で山道を登る足が速くなって、息も上がります。ひい、辛い。
そういえば前回の登山でも、もう来ないぞと思ったのです。すっかり忘れてまた来てしまいました。

 息が上がらないようにずっと同じ速度で歩くのが格好いいと思うのですが、不安なのでつい全力で歩みを進めて、どうしても息が苦しくなると立ち止まってしまいます。山道の歩き方は、とても性格が表れるものです。スケジュールに隙間があると仕事で埋めて、少しでも休みができると疲れてまったく動けなくなる。普段の働き方とまったく同じで、つい、ひいひい息をしながら笑ってしまいます。

 なんだかんだと考えながら歩いていると、やがて下り坂がやって来ます。
山の面白いところは、遠くから見ると裾野から山頂まで弧を描いているのに、実際に歩いてみると、登頂している途中にも下り道があって、下山している途中にも登り坂があるところです。
 体力に身を任せて無心で登って、転ばないように素早く慎重に、足を進める場所を見定めながら駆け下ります。登り下りをくり返していると、時々とても視界がひらける場所に出ることがあって、思わず立ち止まって、遠くの山や、湖や、街を、吹き抜ける風に撫でられながら見渡します。

 その時に初めて、これまで歩んで来た道のりを思って、充実感に胸が満たされるのです。登り道も下り坂も、一歩ずつ確実に頂上に近づいている事実が、日常生活では感じられない「頑張っている」実感をはっきりと与えてくれます。

 休みながら登頂すると達成感が薄れる気がするので、だいたい山頂の直前が最も辛いのですが、あともう少しだと信じて一気に登り切ります。
山頂に着いた瞬間は達成感で自信がみなぎって、さっきまであんなに辛かったはずなのに、これから下山できることが嬉しくなるのです。

もう山に来ないぞと思ったことは忘れて


 山の頂上というのも不思議な場所です。古くからある茶屋は浮世離れしているようだし、山小屋で食べるカップラーメンや、お湯を沸かして淹れた珈琲は、この世のものとは思えないほどおいしく感じられて、チョコレートの糖分も全身に染み渡るのがわかります。

 ようやく一息つくと、山頂からの景色を眺めながら、また一気に登ってしまったなあと少し反省します。道の途中で余裕を持って、景色や草花を楽しめるようになるまで、あとどれくらいかかるのでしょう。自分自身の苦しみにとらわれず、ただそこに咲いている草花を愛でるようになるまで、どれくらいなんでしょう。

 帰りの下り坂は、そのほうが体が楽なので、ほとんど滑り落ちるように駆け下ります。気力と体力が重要な上りよりも、転ばないように集中して頭を使うので、登りには不安で膨張していた思考がすっきり整理されます。
 脚に普段とは違う負荷がかかるので、最後の方は膝が笑うのが可笑しくて、私まで笑ってしまいます。ああもう無理。これ以上一歩も歩けない。ひい、わはは。

こうして元の生活場所へ向かいながら、また早く山に来たいと思うのです。

 コンクリートの道に出ると、完全に登山が終わったことを知って、ああ、楽しかったとしみじみ思います。もう山に来ないぞと思った時のことは、すっかり忘れているのです。

 でも、人生もそんなものなのかなと思います。
先の見えない道をひたすら登って下って、憂鬱が晴れるように視界がひらけて、また登って下って、辛くて、笑って、でも確かにゴールはあって、終わってみればなんか楽しかったなって、そう思うものなのかもしれません。

 そうだとしたら、いつもの帰り道が、少しいいものみたいでした。

Text/姫乃たま

次回は<クリスマスもお正月も自由に過ごしていい…そんな大人の称号が少し寂しい>です。
子供のとき感じていたクリスマスの煌びやかさや、親戚家族と過ごす年末年始の特別な感じも、大人になった今となっては懐かしい。「家族のこども」でいられたあの日々を、姫乃たまさんが思い出して綴ります。

ライタープロフィール

姫乃たま(ひめの たま)
地下アイドル/ライター
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