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  • 2017.12.11

もう会えないわけじゃない。だけど…祖母が通った喫茶店の須藤さん

ずっと入ったことはないけれど、昔からそこにあるらしい喫茶店……そこは、姫乃たまさんの祖母のお友達、須藤さんのお店でした。須藤さんは、ビールを余分に出したり、姫乃さんを伯母さんと間違えたり……。胸の奥が寂しくなる連載エッセイ。

永遠なるものたち011
「もの忘れ」

手を握り抱き合ってさよならを言う姉妹の画像
by Matthew Henry

 昔から家の近くに、やっているのかやっていないのかわからない喫茶店があります。入口の扉は中が見えないデザインで、大きな窓にはビールを持っている美人画のポスターなどが貼られているので、やっぱり中が見えないのです。

 暗くなるとポスターの隙間から明かりが漏れていたり、店先の看板があったりなかったりするので、どうやら営業はしているようなのですが、家まであと少しなので立ち寄る機会もなく、いつも家に着くと喫茶店のことは忘れてしまいます。
 それなので、まさかそこへ祖母を迎えにいくことがあるなんて、思ってもみませんでした。

 ずっと中が見えなかった扉を押すと、小さなテーブル席の奥から、ようやく迎えが来た子供のような顔で、嬉しそうに祖母が手を振っています。

 幼かった私の手を引いて、お寺やお団子屋さんや、どこへでも連れて行ってくれた祖母。いつからか私が彼女の手を引いて、喫茶店から近くの家まで帰るようになりました。
 働き者だった祖母の手は節くれ立っているけれど小さく、すっかり私の目線より低いところにある横顔をみると、人が大人でいられる時間は案外短いのだなあと思います。

 カウンターには祖母より少し年下の女性が立っていて、挨拶をすると笑顔でおしぼりと瓶ビール、それからマグロのお刺身をテーブルに並べてくれました。
背筋のぴんと伸びた女性で、「須藤さんはプールが趣味なの」と言う祖母の言葉に思わず頷いてしまいます。
喫茶店というより、スナックというか、小料理屋らしい雰囲気のこの店を、ずっと一人で切り盛りしているそうです。

 その昔、祖母と須藤さんは大酒飲みで、一緒によく飲んでいたといいます。今夜はもうひとしきり話し終えた様子でしたが、新しい聞き役が登場したので、賑やかだった頃の話に再び花が咲きました。いなくなった人たちの思い出に目を細めるふたりの横で、私も大酒呑みのふたりと、その周りにいる会ったことのない人たちを思い浮かべます。

 いよいよ祖母が喋り疲れると、須藤さんが「いいね、迎えにきてくれる人がいて」と言うので、少ししんみりした空気が流れました。彼女は店の二階に、ひとりで住んでいます。
 須藤さんがもう一本ビールを出そうとしていたので、やんわり祖母が遠慮すると、引き止めようとしているのか、「あら、私ビール出したかしら?」ととぼけて首を傾げました。お店にはまだほかのお客さんは来ていません。お会計が明らかに値引きされていたので、いいのよだめよとレジの前で押し問答してから、私たちは店先で見送られて帰路につきました。

少し寂しいけれど、楽しい時間だから

 こうして一度顔を合わせると、急に縁が深くなるようで、数日後、喫茶店の前で困った表情の須藤さんに呼び止められました。これまでもすれ違っていたのに、気がついていなかっただけかもしれません。
 なにやら遠方に住んでいる妹さんから荷物が届いているのに、宅配便の不在票をみてもどうしたらいいかわからないというので、もっとどうにもならない困ったことじゃなくてよかったと安堵しながら、再配達の手配をして笑顔で別れました。

 長い間ずっと縁がなかったのに不思議なものだなあと思いながら、祖母にその話をすると、「この間ね、須藤さん、たまちゃんのこと私の娘だって勘違いしてたみたいなの」というので驚いて笑ってしまいました。伯母と私は顔が似ていなくもありませんが、年齢が倍ほど違うのです。

 もしかしたら須藤さんは、印象よりもぼんやりとした人なのかもしれません。でもなんか変な気がするのよと祖母は心配していましたが、ぴんと伸びた背筋や、てきぱきした話し方を思い浮かべると、性格との差があって微笑ましく思えました。それに、明るい須藤さんが、内気で小さな祖母に心配されているのが、なんだか可笑しかったのです。

 私が本当に驚くことになるのは、須藤さんがこの間の不在票の件をまったく覚えていないのがわかった時でした。

「この間は伯母さんと間違えちゃってごめんなさいね」
もう私ってばと笑いながらおしぼりを用意している須藤さんは、しかし、私が再配達の電話をしたことはまったく覚えていないのでした。

 今夜も店には私と祖母しかおらず、私は少し気が重たくなって緊張しました。彼女の変化にいち早く気づいていた祖母は、笑顔で話しながら、カウンターの奥に須藤さんが消えると、唇をきゅっと結んで、動揺を隠そうとしているような、心配そうな表情をしていました。

 祖母は須藤さんに何かを思い出させようとしたり、同じ話をくり返しても指摘したりしません。私も、同時に二本出されたビールを何も言わずに飲んで、帰り際に明らかに安くなっているお会計だけ計算し直してお金を払いました。

 黙って瓶ビールを二本飲んでいるように、私は祖母の血を引いて酒飲みになりました。時々とても酔っ払うことがあって、知らぬ間に同じことを話していたり、喋っている途中で同じことを話しているのに自分で気づいたり、それでも話を切り上げることができなくなったりします。
 須藤さんはいま、ずっとそんな感じなのかもしれません。

 同じく酒飲みだった祖母も、この感覚を知っていると思います。須藤さんが同じことをくり返し話しても、私も祖母も何も言いません。自分が酔っ払っている時に指摘されると、いつもすごくショックを受けるからです。
少し寂しいけれど、私たちの会話は楽しく、もうそれだけでいいような気もしました。

「さよならしたから、もういいの」

 それから私は何度も伯母と間違えられ、時には「お嫁さんよね?」と聞かれ、祖母は「お孫さんがいるの!」と驚かれていました。

 しばらくして、須藤さんは遠くに住む妹さんの家で、一緒に暮らすことになりました。

 店を閉店する日、お店には久しぶりにたくさんのお客さんが集まったそうです。賑やかな夜に、祖母は須藤さんと手を取り合い、さようならを言って、お互いに少しだけ涙を流したといいます。

 予想外に寂しい思いをしたのは私で、しばらくして店の窓からポスターが剥がされると、外から初めて店の中が見えました。ずらりと貼られたポスターに目が慣れていたので、随分と寂しく見えました。
 二階の須藤さんが住んでいた部屋も、これまでちっとも意識したことがなかったのに、カーテンが取り外されて初めて、ずっとそこに須藤さんの気配があったことに気がつきました。思えば、私が生まれた時からずっと同じように、この店も部屋もあったのです。空っぽになった窓を眺めて、私の胸もがらんどうになりました。本当に人っていなくなっちゃうんだな、と、知っていたような気もすることを改めて思いました。

「さようならしたから、もういいの」

 祖母は言います。ふたりはもう、いつでもどこでも会いに行ける、大酒飲みのふたりではなくなっていました。絶対にもう会えないわけじゃないけど、遠くへ引っ越したから、もう会えない。いつしか子供のように戻っていたのです。

 子供から大人になるにつれて、いろんなことを知って、そして覚えたことを少しずつ忘れて、人は胎内にいた時のように、人生の印象深い思い出に包まれて赤ん坊に戻っていくのでしょう。
 寂しくないわけじゃないけど、「もういいの」と祖母は本当に思っているようでした。だって人生ってそういうものだから、という祖母の声が、その横顔から聞こえてくるようです。

Text/姫乃たま

次回は<山に登るなんて思ってなかった…はずが気付けばまた登りたくなっている>です。
昔から運動が苦手で、山に登るなんて考えもしなかった姫乃さん。東京でインターネットを通した情報ばかり触れていると「なんでも見れるけどどこにも行けない」という閉塞感に苦しくなります。そんな時に友達に連れられて登山をしてみたら、今までにない充足を感じました。姫乃さんが登山を通して学んだこととは。

ライタープロフィール

姫乃たま(ひめの たま)
地下アイドル/ライター
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