日常生活では得られない「頑張っている」実感

 バスを降りると、澄んだ空気がひんやりと頬を包んで、うとうとしていた頭が冴えます。

はやく土を踏みたい。
山はもう目の前なのに、すぐには登れないのがいつも不思議です。登山靴の紐をきつく結び直して、登山道の入り口まで、山を見上げながら、舗装されたコンクリートの道をてくてく歩いていきます。

 入り口の看板を確認して、土と木の根っこでできた上り坂に足を踏み入れると、空気がまた一段と澄んで、ひしひしと山に来た実感がわいてきます。
ああ、山に来た。山に来たなあ。私、山に来たなあ。
自然と顔がほころぶのを感じます。

 ところが、です。隆起が折り重なっている土の上を五分も歩くと、平らな道に慣れきっている体がきつくなり、なんで山になんか来ちゃったんだろう……と後悔でいっぱいになります。

ひい、ふう、ひい、ふう。
まだコンクリートの上を走る車の音が聞こえるのに(つまりほぼ山の入口)、早くも登りきれる気がしません。日が暮れる前に下山できるかどうかも考えると、ますます不安が募ります。もはや、私を山に引き止めているものは、ここまで来るのにかかった移動の労力のみです。いま引き返すのはもったいなさすぎる……。

 不安で山道を登る足が速くなって、息も上がります。ひい、辛い。
そういえば前回の登山でも、もう来ないぞと思ったのです。すっかり忘れてまた来てしまいました。

 息が上がらないようにずっと同じ速度で歩くのが格好いいと思うのですが、不安なのでつい全力で歩みを進めて、どうしても息が苦しくなると立ち止まってしまいます。山道の歩き方は、とても性格が表れるものです。スケジュールに隙間があると仕事で埋めて、少しでも休みができると疲れてまったく動けなくなる。普段の働き方とまったく同じで、つい、ひいひい息をしながら笑ってしまいます。

 なんだかんだと考えながら歩いていると、やがて下り坂がやって来ます。
山の面白いところは、遠くから見ると裾野から山頂まで弧を描いているのに、実際に歩いてみると、登頂している途中にも下り道があって、下山している途中にも登り坂があるところです。
 体力に身を任せて無心で登って、転ばないように素早く慎重に、足を進める場所を見定めながら駆け下ります。登り下りをくり返していると、時々とても視界がひらける場所に出ることがあって、思わず立ち止まって、遠くの山や、湖や、街を、吹き抜ける風に撫でられながら見渡します。

 その時に初めて、これまで歩んで来た道のりを思って、充実感に胸が満たされるのです。登り道も下り坂も、一歩ずつ確実に頂上に近づいている事実が、日常生活では感じられない「頑張っている」実感をはっきりと与えてくれます。

 休みながら登頂すると達成感が薄れる気がするので、だいたい山頂の直前が最も辛いのですが、あともう少しだと信じて一気に登り切ります。
山頂に着いた瞬間は達成感で自信がみなぎって、さっきまであんなに辛かったはずなのに、これから下山できることが嬉しくなるのです。