「りかちゃん」のほうが自分らしくいられる

 さて、新しい恋人の話に戻します。彼は恋人同士になっても変わらず、わたしを「りかちゃん」と呼び続けました。それは、わたしが必死に作り上げてきたものを尊重されるようで嬉しくありました。けれども、プライベートな関係にある恋人に、本名ではない名前で呼ばれ続けることに、違和感も拭えませんでした。

 さらにもうひとつ本音を付け加えると、わたしの下半身がキュンとくるのは、本名で呼ばれた時でもありました。おそらくわたしは、男の支配欲やわたしに対する優越感が垣間見えた時に、欲情する性癖を持っているのです。

 ようするに、どっちで呼ばれても、不満は解決しないのです。そんな葛藤はつゆ知らず、新しい恋人はいつになってもわたしを本名で呼ぶことはなく、そしてそれは夫となった今になっても続いています。

 わたしの中で、本名とペンネームのどちらで呼ばれたいか、という問題については、なにも解決はしていませんが、ひとつだけあるのは、さすがに8年もの間、「りかちゃん」と呼ばれ続けて、すっかり「慣れた」ということです。

 かつては表の存在である「大泉りか」と、両親の娘であり隣にいる人の恋人でもある、私的な存在の「本名のわたし」とがはっきりと分かれて存在しました。けれど、ペンネームで呼ばれ続けることで、「大泉りか」の領域が広がりました。夫が「りかちゃん」と呼ぶことで、すっかりプライベートまでわたしは「大泉りか」になってしまったのです。

 慣れによって「大泉りか」と呼ばれることにすっかり抵抗がなくなってしまった今となっては、むしろそっちの名前で呼ばれるほうが生きやすくもあります。なぜなら、「大泉りか」は、わたしが生きたいように生きるために作ったキャラクターなのです。だから、その名前で呼ばれるほうが、ずっとある意味で“自分らしく”いられる。ただ、ひとつだけ困っていることといえば、近い将来、息子が「なんでママはりかちゃんって呼ばれているの?」と疑問を抱くであろうことですが、まぁその時はその時で考えればいいと思っています。

 最後に、このコラムを書くにあたり、気になって鶴見辰吾さんのwikiを見たところ、なんと東京出身で、港区立青山小学校から、成蹊中学校・高等学校に進学しているではないですか。っていうことは、わたしは、完全に、おそらくはご本人も覚えていないような些細な嘘に、人生を大きく左右されてしまったってことじゃないですか。愕然……。

――次週へ続く

Text/大泉りか

次回は<どうでもいい蕎麦屋での「共通の経験」がわたしと恋人を結びつける>です。
大泉りかさんが、近所の名店をあらかた行き尽くして、恋人に誘われたのは一番近所にある何の変哲もない蕎麦屋。いざ入ってみるとその味は……。何てことない経験の積み重ねがカップルを強く結びつけるのかもしれません。