メンヘラが感染する地獄の夜

恋人とゆく夜の道すがら、海から吹いてくる磯臭い湿った夜風は気持ちよく、ああ、夏だなぁと思いました。せっかくの海のそばに住んでいるのに、毎日東京に出掛けていって、せっかくのこの街を、満喫できてないなぁとも。
一方の彼は、わたしがその日、どこに行って何をしていたかをずっと考えていたようです。夜道で突然、わたしのことを罵り始めました。

「ああ、結局、こうなるのか」
かろうじて残っている愛を振り絞って、恋人のリクエストに応えたつもりでした。けれども、恋人はそんな愛じゃ足りないと言う。もっと俺を愛せよと。どこまでわたしを恐喝するの。ウンザリとした気持ちで踵を返し、路上で喚き散らしている恋人を置いてさっさと家へと戻りました。

恋人が、そのままどこかに行って、頭を冷やしてくれることを期待したものの、わたしを追いかけて家に戻ってきました。「じゃあ」と代わりに出ていこうとリュックに荷物を詰めましたが、「出ていかせない」と言います。

ならばと思い寝ようとすると、それもダメだと言い、うとうとしかけると、何度でも起こしてくる。寝入りそうになるたびに声を荒げられるのが嫌だし、もしも何かの拍子にスイッチが入ったら、殺されかねないとも思いました。

仕方なく寝ることは諦めて体育座りで、ただひたすらに、時間が過ぎ状況に変化が起きるのを待ちました。その間、彼は延々とわたしを責め、自分の状況を憂い嘆いています。こうなった原因はわたしにあると思って、ずっと我慢してきたけれども、もういい加減無理だと思い、そしてわたしもブチ切れました。

「あああ、うるさい! もういい加減にして!」と怒鳴ると、被害者のつもりの彼は、正当に怒り悲しむ権利をまた手に入れたかのように、さらに態度をエスカレートさせます。それに呼応するように、わたしもまた激昂しながら、ふと頭の片隅で考えていました。ヘラりは、こうやって感染するんだなと。

地獄の夜に終わりが来たのは、朝の5時を回ったあたりでした。突然「出ていけよ」と言われました。眠気と根気が限界まで来ていたわたしは、このチャンスを逃したらおしまいだと思い、パソコンとメイク道具と数日分の衣類が入ったリュックを背負って、家を後にしました。

「あー、終わった!」と解放感に溢れながら、ネットカフェに入り、新宿のシティホテルを3泊分押さえると、とりあえずの行き先をキープしたことに安堵を覚えつつ、ようやく長い夜を終えてリクライニングシートで眠りについたのでした。恋人と家計を同じくしていなくてよかったと心から思いながら。

――次週へ続く

Text/大泉りか

次回は <婚約解消でようやく気づいた。何があっても親はわたしの味方だということ>です。
「きちんと就職しなさい」「早く結婚しなさい」と急かされるのが嫌で、大泉りかさんがずっと避けていた実家。しかし、婚約を解消してしかたなく帰ってみると、何も言わずに受け止めてくれる温かさがありました。