一線の向こうに行けなかった自分

 ぐだぐだと前置きが長くなりました。映画の話をしましょう。映画『身体を売ったらサヨウナラ』のヒロイン、鈴木リョウコは、有名大学を卒業後、東大大学院を経て日本を代表する大手新聞社で記者として活躍する、いわゆるハイスペックな女性です。そんな彼女は元AV女優という過去を持ち、そして退屈しのぎに悪友や、権力も金もある彼氏とホストクラブ通いに明け暮れている。その一方で、売れない下北系ミュージシャンの彼氏と爽やかな恋愛までしている。

 これだけの矛盾に満ちた人生を乗りこなすことの出来る鈴木リョウコは、当然のことパワフルな人間で、回りの人々は時折、そんな彼女に(退屈しのぎに)ひっかきまわされて、酷い目にあったりもする。
特に鈴木リョウコのターゲットになりがちなのは、「男」と「ピュア系(に見える)女性」です。一度でも身体を売ると、買い手である男性という生き物全般に対して軽蔑心が生まれてしまうのは、わたしも実感としてよく理解できます。ピュア系の女性に関しても「なんでそうしていられるの?」という苛立ちと同時に、堕落させてやりたいという破壊欲みたいなものが生じることも、これまたよくわかります。

 けれども、その「ピュア系」も、結局のところはふてぶてしい女であり、反対に、ホストクラブでともに豪遊する悪友が最後に行きつくのが、一般的に言われている「女の幸せ」だったりもする。リョウコと同じく、皆それぞれが混沌とした矛盾を生きる姿が、リョウコの視線をもって描き出されるのですが、その視線に、観察対象としての冷たさや下衆な興味よりも、温かみのほうが強く感じられるのが、この映画の後味を良くしているように思えました。

 とにかく映画を見終えた後に思ったのは、一線の向こうに行けなかった自分が悔しいということでした。なぜなら、スクリーンの中のリョウコは、「自分の人生」を生きるために必要な力を持っているから。具体的にいうと自分の選択で世の中を切り開いていく潔さと、何が起きても動じない地肩の強さです。とくに後者はAVに出演することでより鍛えられたのではないかと思うと同時に、この資本主義社会で、「若く、女で、金を持っている」という最強のカードを手に、遊び狂っている姿は、正直なところ、羨ましくも見えるのでした。

 恥ずかしさだとか世間体だとか親や彼氏を思う気持ちだとかを振り切って、軽やかに向こう側に飛べていたのなら、今の私では思いつきもしない快感や享楽や喜びを知れたのではないか。かといって、いまから勇気を出してメーカーに履歴書を送ったりしない時点で、やはりわたしには越えられない一線であることが腹立たしくもあります。
でも冷静に「向いている/向いていない」を考えた時に、数行のセリフも覚えられず、ビックリするほど棒読みになってしまうわたしは、完全に「向いていない人間」ですし、そもそも、そこで通用するルックスをしているのか、というあまり考えたくない問題もある。だから、もしも生まれ変わったとしたら、美人の巨乳に生まれてAV女優になりたい、なんてことを思わせる作品でした。そういう意味でちょっと、というかかなり、危険な作品です。公開は少し先のようですが、興味のある方はぜひ、劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか。

Text/大泉りか

次回は<「やっぱり母乳で育てるのがいいんだよね」?恋愛にも共通する「愛情の恐喝」>です。
新米ママが必ず選択しなければならないのが、母乳、ミルク、はたまた混合育児のどれにするかということ。でも、体質の問題で、必ずしもやりたい方を選択できるわけではありません。なのに中には「ミルクでは愛情を与えきれない」なんて根拠のない口出しをしてくる人もいます。そんな「愛情の恐喝」は恋愛にも見られるかも……。