忌避される「リアルゲイ」――密やかに隠されるホモセクシュアル

密やかに隠されるホモセクシュアリティ

東大院生のポルノグラフィ研究ノート 服部恵典 東大 院生 ポルノグラフィ 研究 Georgie Pauwels

 前回は最後に、「男性向けAVならば女性同士でセクシャルな行為に及ぶことは珍しいことではないのに、女性向けAVで男同士ちょっと仲が良いだけでどうして驚かなくてはいけないのか?」と、自己批判的に問いを投げかけた。
我々は、ホモセクシュアリティに満たない、BL的ホモソーシャルですら過敏に反応してしまう。
理由はおそらく、男性の同性愛が我々の目に触れないように、密やかに隠されているからだ。

 それは、この社会において隠されていると同時に、(世間のBL人気の割に)女性向けAVにおいても現れていない。
違法の女性向けアダルト動画サイトなどでゲイ男性向けAVを編集したものが公開されていたりすることはあるが、数はそれほど多くない。
また、前回見たように、SILK LABOで許されているのは男たちの親愛をほのめかすことまでで、男優が男優の股間を撫でさすれば文字通り「NG」シーンになってしまうのだ。

 出鼻をくじくようで本当に申し訳ないが、「なぜ男性同性愛はいかなる場所でも隠されるのか」という問いは、一介の学生に答えを出せるようなものではない。
私が手に負える範囲、誠実でいられる範囲で今から書いていくのは、ほんのヒントか、周縁的なテーマにすぎないということを、あらかじめご了承いただきたい。

武士は「ゲイ」ではなかった

 さて、なぜこの社会において男性のホモセクシュアルが隠されているのか。
いろいろな考え方はあるが、前回とのつながりで言えば、「男性優位なホモソーシャルにとって都合がよいから」というのが答えになるだろう。
振り返りになるが、イヴ・コゾフスキー・セジウィックいわく、近代社会が異性愛を強いているのは、女性を欲望の客体=モノとみなしてその社会的な力を弱めておくためであり、同じモノに欲望を注ぐことによって男性が団結するためなのである。

 ただし、日本の武士社会など、男性同性愛に溢れた社会がかつて存在していたことをご存知の方も中にはいるだろう。
織田信長と森蘭丸や上杉謙信と直江兼続などが有名だが、そこでは男性同士の愛は「衆道」と呼ばれ、むしろ美徳とされていたのだ。

 ちなみに、こうした例を引いて、「日本は昔からゲイ(やバイセクシュアル)に差別意識のない文化だったのだ」と言われることがたまにある。
だが、一理あるとはいえ、この発言のすべてを受け入れてしまうわけにはいかない。
「今の日本が性的マイノリティに差別意識がないとは言えない」というのがその大きな理由の一つだが、同様に重要なのは「当時、『ゲイ(やバイセクシュアル)』というカテゴリはなかった」ということである。

 ミシェル・フーコーという20世紀を代表する思想家によれば、近代より以前に「ゲイ」という種類の人間は存在しなかった。
存在したのは、男性同性愛の「行為」だけである。

フーコーいわく、「性」が人間の奥底に眠る、何かとてつもないエネルギーをもった重要なものとしてみなされ、人格を説明するものになったのは近代になってようやくのことなのだ。

 私なりに簡単に言い換えるなら、前近代において男性同性愛は「趣味」に属するような行為であった。
しかし今や、同性愛とは「生き方」でありその人を表す「アイデンティティ」なのである。
この「行為」と「アイデンティティ」の区別は、後ほどまた重要になるので、頭の片隅に入れておいてほしい。