現実と幻想の逆転

 一般的に、漫画アニメ原作を実写化することへの批判は非常に多い。
好きだからこそ、その「再現度」が低い場合が不安なわけだ。
『おそ松さん』ファンの「二次元だからこそいいのだ」という叫びには、当然この思いも混じっている。
デフォルメされたあの姿が愛らしいのだし、作品愛・作品知識のない人間に自分の愛する作品をいじくり回してほしくないという気持ちはよく分かる。

 しかし、「気持ち悪い」という感想には、それ以上の意味がこもっているはずだ。おそらく、男性同性愛を実写化することへの嫌悪感である。
先と同様、「再現度」が不安であるだけでなく、この場合は、再現度が高すぎること、あまりに生々しいことへの不快感である。

 私もBL漫画は趣味として少々嗜んでおり、逆にゲイ男性向けAVは研究のために観るのでも憂鬱であるから、「リアルすぎて嫌だ」という感覚は分かる。
だが、この感覚は逆転している。正確には、2次元BLが「フィクションすぎる」のだ。
3次元上にゲイが先にいて、それを参照しながら2次元のBLが描かれているはずなのに、人気が出たせいで2次元が「本物」に、実在するゲイが「偽物」になってしまっているのである。

 我々は満天の星空を見て、「プラネタリウムみたい」という感想をこぼすことがある。だが本来、プラネタリウムのほうが星空を模してつくられているのだ。
我々は、我々を囲む幻想に慣らされて、現実への感度が壊れてしまった世界に生きている。

「ホモソーシャル」を構成する同性愛嫌悪がはびこるこの社会において、嫌われ者であるゲイを美しくデフォルメしたのが二次元BL(=プラネタリウム)である。
「気持ち悪い」「吐きそう」という感覚は、過度に美化するこのフィルターを通さずに、裸眼でありのままを見た結果なのではないか。

 社会学者の石田仁は、「ゲイに共感する女性たち」(『ユリイカ』2007年6月臨時増刊号)で、腐女子たちの「リアルゲイに興味なし」という上記のような態度について論じている。
つまり「偽物」のゲイは、無印の「ゲイ」ではなくわざわざ「リアル」という言葉がつけられてしまうのだ。

 石田は、「『ほっといてください』という表明をめぐって」(『ユリイカ』同年12月臨時増刊号)で問題をさらに詳しく論じているので興味がある方はそれらを読んでいただくとして、ここでは石田とはまた別に、ごく素朴な結論だけ書いておこう。
つまり上述したように、「行為」と「アイデンティティ」は違うのだ。

 プラネタリウムにはプラネタリウムの良さがあることを否定するつもりはないし、無理やり男性の同性愛行為を視聴する必要もない。
そもそも同性愛者も、別に自分たちの行為を見て興奮してほしいと思っているわけではないだろう(むしろレズビアンは自身のエロティシズム化に不満を持っているかもしれない)。

 しかし、「行為」に対する「気持ち悪い」「吐きそう」という感覚を、「人間」にぶつけるのは極めて問題である。
これは女性にだけ言うのではない、むしろ男性に向けて言うべきなのかもしれない。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。同性愛は絶対に「罪」ではないが、示唆的な言葉だ。
同性愛が生き様と結びつけられる(られてしまう)現代だからこそ、嫌いな「行為」を見ない自由を持ちながら、しかし切り分けて「人」を愛することが重要なのではないか。

  *  *  *

 本来は「なぜ社会で、女性向けAVで、男性同性愛が隠されているのか」という問いだったはずだが、「ホモソーシャルがあるから」「リアルすぎるから」という答えをちらりと見せただけで、脇道に逸れて思わぬところに着地してしまった。
しかも、「性的マイノリティを差別するな」という学生の主張など、肉乃小路ニクヨさんや「2CHOPO」の連載があるAMの読者の方々には釈迦に説法だったかもしれない。

 ただ、誠実に難問と向かい合うことはできなかったが、書きたいこと、伝えたいこと、書けることだけを書くという別の誠実さに突き動かされた結果なのだ、という言い訳で容赦していただいて、今回ももう筆を置こう。

Text/服部恵典

 次回は《女性向けAVのパロディと「AV OPEN」の勝機――『兄カノ。』に見る男性向けメーカーの思惑》です。