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  • 2017.07.12

「私たち」はAVを卒業できない――「AVは男のもの」が通用しなくなった時代に

嵐山みちる、麒麟、タイガー小堺、沢庵、真咲南朋(敬称略)の有名AV監督5名によるトークイベント「僕たちはAVを卒業できない」。服部恵典さんがこのイベントタイトルから、AVを研究する意味と、女性もAVを観るようになった時代について考えます。

「僕たちはAVを卒業できない」

美しい青い瞳でこちらを見つめる東大院生のポルノグラフィ研究ノートのサムネイル画像
by Luca Iaconelli

 去る6月17日、有名AV監督5名によるトークイベント、「僕たちはAVを卒業できない」に行ってきた。
出演したのは、「GOSSIP BOYS」を手がけるなど女性向けAVとの関わりも深い嵐山みちる監督、ごっくんモノのフェチAVを専門とする麒麟監督上原亜衣引退作も撮影したタイガー小堺監督、10年以上続く「脅迫スイートルーム」シリーズで知られる沢庵監督「M男監禁パニックルーム」シリーズやビビアンズ作品などのドキュメンタリズムに定評のある真咲南朋監督
多くのAVは、“高尚な”「作品性」といったものは後景に退き、誰が監督しているかなんて気にもされずに視聴されるものだが、この5名はその名前で作品が売れることも珍しくない、第一級の監督たちだ。そしてゲストは、「スカパー!アダルト放送大賞2017」女優賞を受賞したAIKA。本当に豪華な夜だった。

 業界の裏話も興味深かったし、沢庵監督の花嫁候補を客席から募る公開お見合いコーナーなんて腹がよじれるほど笑った。だが、麒麟監督が休憩時間に関係者席に駆け寄って「沢庵監督のアレはほんとにオフレコで……!」と囁いているところなども目にしたので、この場に書けることはあまりにも少ない。
イベントの内容を知るのは、あの夜あの場にいた人間の特権ということで、今回は「僕たちはAVを卒業できない」というタイトルそのものについて考えたいと思う。

「僕たちはAVを卒業できない」というタイトルを聞いて、私はまず「ああ、まさしくそうだ」と思った。私は、AVを卒業できない。遅れて思い出したのは、ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』の前書きである。

ぼくらはマンガなしじゃ生きられない

 少し長いが、前書きから引用しよう。

 筆者の勤める大阪大学のホームページには、研究者総覧があって、そこには教員が研究キーワードを三つずつ登録している。ぼくのそれは比較文学、セクシュアリティ、マンガだが、ある日、所属講座の主任が、大阪大学全体でマンガを研究課題にしている人がどれくらいいるか当ててみろと言う。ぼく一人ですかと聞くと、ニヤニヤしながら五人いると言う。へー、そんなにいるんですかとちょっと驚く。だが、この話には落ちがあって、主任も興味があって検索をかけてみたらしいのだが、実はマンガという検索語が「マンガン」を拾って、それで五人出てきたらしいのだ。
(中略)
 これには少し考えさせられた。そりゃ、マンガンの研究は大事だろう。電池か何かにも入っているらしいし。でも、ぼくらの生活との現実の関わり具合から考えて、マンガが一人、マンガンが四人というのは、いかにも不均衡じゃないか。ぼくらはマンガンなしでも(たぶん)生きていけるが、マンガなしじゃ(たぶん、きっと、いや、まあ、ちょっとは)生きられないじゃないか。
(ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』7ページ、太字引用者)

 私はこれを読んだときにも、「ああ、まさしくそうだ」と思ったのだ。
もちろん、ヨコタ村上の言っていることは、端的に間違いである。なぜって、「ぼくら」はマンガがなくても生きていけるからだ。ちなみにマンガンは人体の必須元素であるらしく、マンガンなしだと「ぼくら」はおそらく死ぬ(まず不足しないらしいが)。

 しかし、そういう無粋なツッコミを振り払って、「〇〇なしじゃ生きられない」と胸を張って言いたくなるときが、あなたにもあるだろう。控えめに言いかえても、マンガは「生きのびる」ことには必要ではないが、よりよく「生きる」ことを目指すとき、あるとかなり嬉しい。

AVなしじゃ生きられない

 そして私は、ヨコタ村上を真似て「ぼくらはAVなしじゃ生きられないじゃないか」と言ってみたいのだ。
もちろん、この宣言も端的に大間違いで、しかもマンガと比べて危険でもある。「ポルノは必要悪だよね~」といった、よく耳にするゆるゆるの結論にすぐ飛びついてしまうことになるからだ。AVに絡みつくもろもろの悪い面をなかったことにする、だいぶ能天気な宣言である。

 でもやっぱり、「ぼくら」はAVを観ている。姉妹サイト「TOFUFU」でもtinasukeさんが、「AVを見る人がダメ」という自身の結婚相手の条件をかんがみて「もしかしたら年収1,000万超えの人を探すより、AVまったく見ないという人を探す方が難しいかもしれません」と書いていた(参考)。統計的に正しいかどうかは置いておくとして、この感覚はかなり妥当だと思うのだ(逆に言えば、tinasukeさんの夫のような男性がいるのだから、「ぼくらはAVなしじゃ生きられない」という断言はやっぱり間違いなのだけれども)。

 そして、AVのもろもろの悪い面をどうにか改善しようとする場合も、AVのそういうもろもろの楽しい面をなかったことにして議論を進めるのでは不十分だと思う。
私に「なぜAVを研究してるの?」と聞いてくる人はよくいて、気持ちもすごく分かるのだけれども、しかしその言葉の裏に「何でそんなくだらないことを研究してるの?」「それが何の役に立つの?」という思いを貼りつけてくる人は、AVについて――というよりは「生きる」ということについて、表面的にしか考えていないのではないかと思う。
「だって、ぼくらはAVなしじゃ生きられないじゃないですか」。私が研究する理由は、ひとまずこれで十分だと思うのだが、どうだろうか。

「僕たち」じゃなく「私たち」

 あのイベントは本当に楽しかった。しかし、「僕たちはAVを卒業できない」というタイトルには引っかかる部分もある。それは「僕たち」の部分だ。私も一旦、わざと「僕たち」「ぼくら」といった一人称を採用して書いてきたけれども、「僕たち」とは誰のことを言っているのか?

 言うまでもなく、「僕」とは通常、男性の一人称である。だが出演者には女性の真咲監督もいた。じゃあそこにいる観客を指しているのかというと、しかしやはり、客席の3~4割は女性であり、男女関係なくみんなでイベントを楽しんだのである。出演者いわく、アンケートによれば(男女関係なく?)嵐山みちるファンが多かったらしいし、沢庵監督のイベントは今回が初めてではないという女性ファンも、壇上に上がっただけで4人いた。「僕たち」という一人称の選択は正しかったのか?

 もちろん、女性よりは男性のほうが多かったのは事実だ。しかし、だからといって多数決で「僕たち」を採用してしまえば、マイノリティとしてでも確実にその場に参加していた女性たちの存在は見えにくくなる。それでは彼女たちの愛を、欲望を、とらえることができない。「僕たち」という呼び方の裏にあるであろう「AVは男のものである」という前提は、もはや通用しない時代なのではないか。

「AVを卒業できない」人、「AVなしじゃ生きられない」人のなかには、絶対に女性も含まれている。そして私は、そういう「私たち」のために研究しているのだ。
「私たち」とは、たしかに社会の成員全員のことではない。しかし、決してニッチで取るに足らない存在ではなく、多くの大事な成員なのである。

Text/服部恵典

ライタープロフィール

服部恵典
東京大学大学院修士課程。同大学卒業論文では、女性向けアダルト動画について社会学的に論じる。
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