「生活空間に自分以外の人間がいる」

「生活空間に自分以外の人間がいる」というのは非常に大きなことだ。

もし夫と結婚していなかったら、私は今ごろ服を着ていないだろう。
これは経済的に服が買えないという意味もあるが、買えたとしても1人なら別に着なくてもいいからだ。

つまり、人間というのは「人の視線」があるから「人間であろうとする」のであって、なければ動物なのである。
1人でもちゃんとした格好をして何だったら化粧をして髪まで巻くという、生まれながらの人間もいるとは思うが、私のように人の目がある時だけ人間のコスプレをする動物も多い。

私が辛うじて「人」という字の長い棒でいられるのは、短い棒である夫の存在と視線があるからで、それがなければ今頃「ゴリラ」の右側の点々になっている。

また「朝起きて夜寝る」という生活をしているのも、夫がいるからだ。
私一人だったら「ソロ三交代勤務」みたいなメチャクチャなサイクルになっていると思う。

夫がいなかったら、飯を食いながら屁もするだろうし、便所も流さない可能性がある。

今でもインドア派のターザンのような生活をしてはいるが、それでも夫の存在と視線があるだけで、無意識に「人間のふり」をしようとするし「相手の生活に合わせる」という社会的な行動を取るようになる。

1人でも他人や社会と繋がりがある人は良いが、私の場合は今のところ夫が私を社会に繋ぎとめる最後の命綱になってしまっている。

逆に、他人の視線があるから、外見を取りつくろったり気を使ったりという「面倒」が起こると言えるが獣が人間であり続けるためにはそれが必要ということを、会社をやめてから思い知った。

また家に自分以外の人間が存在することで「安心感」が得られる。
夜中に、ホッケーマスクをかぶったお客さんが来たら、1人だろうが2人だろうが「死体の数」という差しか生まれないかもしれないが、それでも1人よりは安心だし「相手が追いかけられている間にワンチャン」という希望が持てる。

このように「そこにいてくれるだけでいい」というのは激安JPOPの歌詞の世界だけではなく、本当にそこに誰か存在するだけで生活や意識というものは大きく変わるのだ。

だがその存在の意味に気づけるのは失ってからなのだろう。

もし夫がいなくなってはじめて「夫、お前だったのかい、俺を人間にしてくれていたのは」とゴリラに戻った私は気づくのだ

Text/カレー沢薫

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