人の視線があるから人間として生きようとする「一人と二人の違い」/カレー沢薫

今回のテーマは「一人で生きることと二人で生きることの一番大きな違い」である。

結婚がマストではなく、1人でも生きられなくはない昨今、なぜあえて結婚することを選んだのか?と問われたら「そこまで考えてしてねえ」としか言えない。

お互い65まで働けば生涯年収はこれぐらいで老後資金はこれぐらい貯められる、のような計算はもちろんしていない。
だからといって「『人』という字のように、この人と支えあって生きていきたいと思った、ちなみに私は長い方の棒担当です」というようなロマンチックな理由もない。

せめて「これで一生タダチンにあずかれマンがな」みたいな下衆な打算でもあれば良かったが、それも特にない。
ちなみに今のはチンとマンをかけたテクニカルな話法なので使いたければ使って良い。

では何故結婚したのかというと「強く当たって後は流れでお願いします」という、相撲の八百長打ち合わせメールのような理由だ。

当時、今もだが、男女が数年つきあうと自分たちも周囲も「どうする?」という空気になってくるのだ。
ここで「それはどうにかしなきゃいけないことなのか?」と言えない雰囲気が未だに日本にはある。
つまり「ステイ」という選択肢は除外されがちなのだ。
それでも「俺は今机の下に隠された、それがいいんすけど?」と食い下がり、ステイを選ぼうとすると「だらしない」「けじめがなってない」という烙印を押されてしまい、それが「あなたみたいなだらしない人とつきあってられないわ」という別れの原因になってしまうこともある。

結局「結婚」or「別れる」の二択となり「結婚を選んだ」というより「消去法で結婚した」というカップルも結構多いのではないだろうか。
我々も御多分に漏れずそれであり、おかげでプロポーズなども特になかった。

私はこの「二択の圧」があったから結婚できた、とも言えるが、逆にこれがなければわざわざ別れずに済んだというカップルも多いのではないだろうか。
結婚せず、かといって別れずズルズルやるという関係性が「よくない」とされている時点でまだまだ多様化にはほど遠いのかもしれない。

ともかく、特に決定打のない結婚をしたため「一人で生きることと二人で生きることの一番大きな違いは?」と聞かれても「家に俺以外の人間が存在しますね?」というただの物理的事実を疑問形で答えることしかできないのだが、もしかしたらこれが一番大きな違いなのかもしれない。