一人の時間を寂しいと感じる
人間は少ない

そしてテーマの「孤独を感じる時」であるが、実は現在孤独を感じることがあまりない。

私は今、大半の時間を1人で過ごしているのだが、孤独と思うことはほぼないし、むしろ学校や会社に行っていた時の方が孤独を感じていた。

井之頭五郎が1人飯を「自由で豊かで救われる時間」と評したように、1人で好きなことをやっている時間を寂しいと感じる人間は少ないのである。
しかし、五郎も「俺、今隣のカップルに『ぼっち飯ww』と思われているのでは?」と意識した瞬間、さっきまで豊かだった口の中に突如口内炎デルタアタックが発生、悪い意味での孤独を感じてしまうのではないだろうか。

つまり、孤独というのは他人の目を気にしたり、周囲と比較することで発生してしまうのである。
思えば学生時代も1人でいること自体より「周りはみんな友達といるのに自分だけ1人」という状況に孤独を感じていた気がする。
もし、休み時間クラス全員がソロ、机で文庫本、寝たふり、そして無駄に水を飲みに行って、水飲み場が最大手という状況なら、自分が1人でも全く孤独は感じなかったはずだ。

実際、自分とは別にクラスにもう1人机文庫本者がいれば孤独はかなり軽減された。
しかし、仲間と思っていた文庫者がグループに入っているのを見た時の孤独はアイアムレジェンドのウィルスミス越えである。

現在は、他人の目はもちろん比較する相手すらいないため、1人でも孤独を感じることはなく、むしろ自由で豊かで救われている、という五郎よりの心境である。
ちなみに、救われているというのは私に集団行動を乱されることがなくなった周囲が、という意味だ。

逆に言えば、どう考えても友達と連むより1人でいる方が好きなのだから、学生時代も周囲と比較せず「休み時間に1人で、これみよがしに江戸川乱歩全集を読んでいる俺が一番豊か」と思えば孤独は感じずに済んだのだ。

つまり、どんな状況でも、他人の目を気にせず、比較をしなければ精神的孤独には陥ることはないのだが、これが一番難しいとも言える。

特に比較というのは周りに誰もいなくても「大谷さんは世界で大活躍しているのに同い年の俺ときたら」など、脳内でいくらでもできてしまう上、キリがないので厄介である。

晩年、二世帯住宅で孫の世話をしている同世代と比較してしまうかもしれないが、同じ状況に自分がなったとしても「3分で孫をぶん殴っている」など「それは自分の幸福ではない」と早めに気づくことが大事である。

Text/カレー沢薫