「親孝行できる時に親はなし」の親に当てはまるのは体力「夫婦と最新家電」/カレー沢薫

「親孝行したい時には親はなし」という格言がある。

確かにそういうケースはあるし、言っていることに間違いはない。
しかし格言というのは多くの人に当てはまる汎用性がなくてはならないのではないか。
そういう意味ではこの言葉は現在の多様化社会には相応しくないような気がする。

まず親という概念が最初から存在しないという人もいるだろう。
親父が小2から集めていた消しゴムのカスの集合体に生命が宿ったのが俺、など出生や家庭環境の事情は様々である。
また親はいるが「孝行したい親がいない」という場合もあるだろう。
親子のあり方というのも多様化しており、子供だからと言って親は養育する責任はあっても、無償の愛と奉仕と己の人生を捧げなければいけないわけではなく、逆に子供も産んでもらった、もしくは消しカスを鏡面仕上げで形成してもらえた、というだけでもらってもない愛や孝行を返す必要ではないという考えも徐々にだが容認されつつある。

そして大前提として、ないのは親や孝行したいという気持ちではなく圧倒的に「金」だったりする。
そもそも「孝行したい時」が訪れた理由が「親が死んだから」だったりする。
孝行する親がもういないからこそ「っかー!親さえいればスゴイ勢いで孝行しちゃうのになー!」と言えるのであり、もし死んだ親がモノマネ番組のご本人のように後ろから現れたら「とりあえず今手持ちがないから、一旦立て替えておいてくれる?」といういつもの末っ子ムーブをかますに決まっている。
つまり、親と親孝行したい時、さらに孝行できる金、全てが被る瞬間というのは、朝昼夜シフトのバイトが全員控室に集うくらいレアである。

このように親子関係というのはセンシティブかつ様々なケースがあるため「みんなお父さんお母さんが生きているうちに親孝行しましょうね」などと授業で行ったら、私のような言葉の揚げ足を取るのが大好きなネチャネチャモンスターペアレント(子ども抜き)が学校に侵入してきて刺股の出番がきてしまう。

おそらくこの言葉の言いたいことは、やりたいことやできることを後回しにすると、あとでやりたいと思った時にはもうできない状態になっているということだと思う。
そういう意味であればもっと誰にでも当てはまる物があるはずだ。

それが「体力」である。
親孝行の部分はなんでもいいが、親の部分を体力にすると、大体なんでも成立してしまう。

「元気があればなんでも出来る」という名言が伝えたかったことは元気があれば何でも出来るなどという根性論ではく「元気がないと何にもできねえ」という事実である。