トムの悲しみは“嘘”に消えていく
度重なる嘘と、それに反するかのごとくこぼれ出す本音。真実を知らないのは母親だけ。トムはギョームを失った悲しみに暮れる暇もなく、かつての関係を否定する日々に苦しみ続ける。
都会の閉塞感を謳った作品はありふれている。でも、田舎の広大な風景を空撮で映して、それがどんよりと息苦しい表現でみせる作品はあまりない。あるとしたら『悪魔のいけにえ』くらい。
血が大量に流れ出すこともなく、凶器が振りかざされることはない。でも、見えない凶器がそこら中にうようよしている。
恋人である彼を失い、その知られざる過去を知っていくトムの孤独と、“ある事件”で母親からも、周囲の住民からも距離を置かれたフランシスの孤独。
フランシスにとっては、弟の名誉を守り、母親の心を救うことだけが生きがいなのでしょう。しかし、この組み合わせは悪い。嫌な予感しかしない。暴力を受ける側・与える側の関係で、小屋でダンスを踊る二人の危うさといったら。これほどシュールでスリリングなダンスは見たことがない。
愛を失った人々が行き着く先は
本作が全編に漂わせているのは、愛の喪失。
トムはギョームを失った。ギョームの母親は息子を失った。フランシスは過去の事件ですべての愛を失っている。それぞれがありもしない亡骸を追い求めて、何もない田舎道を彷徨っている。
まだ都会のように人がいて、店があって、出来事があればいい。だが、ケベック州の片田舎はひっかかる物がなく、人々は自身と向き合って生きている。
世に言う「サスペンス映画」は誰かが犯罪に手を染めたり、身の危険が迫ったり、物理的なスリルが観る者の心を落ち着かせない。でも、この映画はトムの心が落ち着かない。“性”と死の狭間で揺れ動くトムを見ているうちに、不安感が煽られる。
「私の中に愛する気持ちはあるのか、失っていないか?」
自らの過去を暴くように、田舎道が凶器となって襲いかかってくる。
トムが途方に暮れるように、観る者も過去の愛を探る旅に出ずにはいられません。