自分のオールを手にし新しい大陸を発見する

 一つ屋根の下で生活を共にしていながら、互いの理解できない部分ばかり増大していくというのはとても怖いことなのである。
息の詰まるよう状況が何年か続いて、あるときついに夫が家から逃げ出した。

 これによって当然いろいろな問題が生じたが、最も深刻な問題は、当時専業主婦だった私が、自分と社会とをつなぐ、夫という唯一のパイプを失ってしまったことだった。
なにしろそれまで、夫の操縦するジェットコースターに便乗して、黙っていても休みなく刺激が降ってくることに慣れ切っていた。
夫を欠いたことにより今後それらは得られなくなってしまうかもしれない。「やばい、このままでは私の世界は小さくなってしまう」と私は焦った。
自分でオールを漕いで船を進め、新しい大陸を発見しなくてはならないと思った。

 そこで私は、とにかくたくさんの人と会うことにした。そんなことより仕事でも始めておくべきかと思いつつ、とりあえずそれも、人の中にさえいれば何かしら役割が見つかるのではと思ったのだ。
子育て中の身で家を空けてばかりもいられなかったので、ときには自宅をバー化し、お酒とごはんを餌に、友人達を自宅に招いたりもした。
弱った若い子がしばらくうちに住むこともあった。幸い人を見る目はあったので、我が家にやってくる友人たちはみな、私の子供たちを育てる上でも、心強い仲間になってくれた。

 そうして徐々に広がっていった人の縁で、あるときIT系の勉強会やセミナーイベントを開催する非営利団体に運営メンバーとして所属することになった。
初めて名刺を持ったときにはとても感動した。一般的なメールの書き出しが「お世話になっております」であることなども、このときに教えてもらった(「こんにちは」から始めるものだとばかり思っていた)。
そうこうするうちに、ここでの活動を通して知り合った経営者に声をかけてもらって、都内の小さい出版社で働くことが決まった。
思いがけず転がってきた念願の社会人デビューである!最初は事務所の掃除や簡単なデータ入力のお手伝いをしていたが、色々あって気づいたら広報を任されていた。

 誰かの奥さん、誰かのお母さんとしての役割を演じるのもなかなか面白いけれど、どちらでもない個人の私として世の中を泳ぐというのはまた別格の味わいなんである。
個人として社会に出て行くからこそ巡り会う「あれ、私女性としてまだまだオッケーですか?」というようなちょっとしたラッキーハプニングも、砂漠化した心に程よく恵みの雨を降らせてくれた。
自分でいうのもなんだが、私の意を決した船出は大成功。逆境をバネに私、全力で羽ばたいた。