わたしたちはわたしたちをすり減らすことを、もうやめなくちゃ
わたしはこのあいだ、過去を痛みから解放することができた。ある人にこう言われたのだ。
「わたしは《今》のあなたのことが知りたい」
誰か―――特に異性と、親しくなるというのは、その人に自分の過去という傷口を見せることなんだと思っていた。まだ血が噴き出してる傷口を、両手でぱっくり更に開いて、そのさまを事細かにシェアしなければいけないんだと思っていた。
でも「そんなことしなくていい。《今》のあなたのことが知りたい」と言ってくれた人に出会った。その日からわたしは、過去のわたしのことを考えなくなった。もう戻らない過去の行動を、反省しなくなった。いらないポップアップを出してくるアプリは消した。
今は、わたしは、今現在のわたしを、楽しんでいる。
と、担当さんに打ち明けたら、「私もちょうどいまデジタル・デトックスをしている」と教えてくれた。そうか、わたしがしてたのはデジタル・デトックスだったのか、と気がついた。電子に記録された過去と、どうやっても記録されない現在進行形のわたしを、切り離すということ。
図らずもデトックスしてみて気づいたけれど、きっと「反省する」とは「すべての責任は自分にある」みたいな内容の反省文を書いて黙りこくる……ということじゃないんだろう。そういう反省が必要とされるのは義務教育までで、それも大人たちが必要としただけで、子供たちに本当に必要だったのかと言われると怪しいところだ。
「何もかもを他人のせいにするのは違う」とすぐにわかる賢いわたしたちは、一方で「すべて自分が悪い」という自己責任論の罠にすぐ陥る。過去を反省と紐づけて責め続けていれば、自己肯定感なんてすり減って当然だ。わたしたちはわたしたちをすり減らすことを、もうやめなくちゃ。
過去からも未来からも独立した「今」を生きる
もしも人生が連続的に続くなら、昨日のわたしと今日のわたしに齟齬が無いように振る舞うだろう。整合性が取れなくなることは、わたしというアイデンティティを見失うことになるから。イレギュラーなことをしたら大問題だ。下手したら人生が終わるし、人生が終わるから挑戦はできない。でもそれじゃ、限りある命があまりにももったいない。
この夏、二年ぶりに創った演劇は、南千住の街を舞台にした回遊劇だった。タイトルは『リアの跡地』 。シェイクスピアの『リア王』を下敷きにし、現代に未だはびこる家父長制を、この夏とくに感じた家父長制を、紆余曲折した後、ぶっ壊すストーリーにした。ちなみに「回遊劇」というのは、観客が街を歩いていると、役者が出てきてストーリーが展開する演劇のこと。野外劇や街灯劇とも言うのだけど、この形式の演劇はわたしにとっては初挑戦だった。
観客からは好評だったり不評だったり。「謎解きスタンプラリーみたいで楽しかった!」という声もあれば、「よくわからなかった」という声もあった。だけど彼らの喜んでいる顔も、困惑している顔も、実際にその場で見ることができて嬉しかった。これが演劇をやっている醍醐味だ。
観客の目の前で出来事を起こす。そこで巻き起こる賛も否も引き受けて、より自分の高みを目指し、挑戦する。何度失敗しても、再挑戦する。
どんな演劇も、始まる前に同じ言葉を観客に告げる。
「ケータイ電話の電源はお切りください」
これはマナーのためだけじゃない、あなたを≪今≫に集中させるための仕掛け。
演劇をやっている時、わたしの体はどこまでも過去と切り離され、現在という時で跳ねる。過去からも未来からも独立した今を生きる。今日を生きる。
わたしには演劇が必要。そして、もしかしたら、あなたにとっても必要なんじゃないかな。だから、わたしは明日からも劇場に立つ。
Text/葭本未織
お知らせ
葭本未織さんが脚本・演出をされた演劇『リアの跡地』の映像版が現在期間限定で販売中です。
販売は9月30日まで。詳しくは劇団ホームページをご覧ください。
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