「独立した今日を生きる」昨日のわたしと整合性が取れていなくてもいい

「反省できる」ことは偉い

連載、と銘打っているはずなのに、またしてもとても時間が空いてしまった。こんにちは、劇作家の葭本未織です。この夏、二年ぶりに演劇にカムバックしました。楽しかった!

コロナ禍という演劇から強制的に離れさせられる期間を経て、しみじみわかったのは、わたしには演劇が必要だということ。そして、自分に無くてはならないものを見つけたら、絶対に手放してはいけないということ。たとえ自分自身がなんと言っても。

最近は、次に演出する公演にむけて、脚本を書いたり、製作のヒントになりそうな本を読んだり映画を見たりしている。合間に、自分が出演する作品の稽古や打ち合わせをしたり。
毎日が、すごく楽しい。身も心も充実している。それはたまたまコンスタントに仕事がもらえるようになった、という幸運だけによるものじゃない。

わたしが、わたしを責めなくなったからだ。

長い間、自分を責めることが、他人に対する一番誠意のある態度だと思い込んでいた。

よく反省文を書かされる子供だったからだろうか。そんなことが必要ない歳になっても、わたしは心の中で反省文を書き、頭の中で読み上げていた。

「かくかくしかじかで、わたしのしたことは悪いことでした、とっても反省してるので許してください」

わたしにとってあらゆる過去は反省材料だった。でも、それを良いことだと思っていた。だって、反省できる自分は人として偉い。子供の頃、まわりの大人はそう言っていった。反省したらした分だけ、他人に対して誠実になれるって。そして他人に対して誠実になれば、自分に良い影響が出るはずだって。いい影響って具体的には何なのかよく分からないけど、みんながすすめるんだもん、きっと良いことが起こるはずだ。わたしが生きやすくなるはずだ。

だけど実際は、反省すればするほど、わたしの自己肯定感はすり減り、元気は無くなっていった。その理由が今ならわかる。「過去=反省」という考え方は、現代的な生活とまるで相性が良くないからだ。

わたしたちにつきまとう幽霊との決別

2021年現在、「過去」は、おそらく人類の歴史上まれにみるレベルで、たやすく触れられる存在になった。この変化はわたしたちに、昨日と今日と明日が地続きすぎる生活をもたらした。

日曜のお昼。だらだら二度寝から起きてiPhoneをさわる。なんとなく開いたInstagramには、24時間前に自分が上げた洒落たランチの写真がある。皿の横には恋人の手が映りこんでいる。一方、LINEを開けば12時間前、その恋人と喧嘩したテキストメッセージが目に飛び飛んでくる。Twitterには6時間前、眠る直前に裏垢にしたためた病んだツイートがある。

わたしはこう思う。「あー昨日のわたしはどうかしてた。全部わたしが悪かった。反省してる。ごめんなさい。……だから、悲しいけどこの人とは別れよう。きっと二人の関係は修復できないだろうから。」この思考に飛躍があることを、わたしは気づけない。

Googleフォトが時々「一年前のあなた」をポップアップしてくることや、数年ぶりにログインしたFacebookが「友達ですか?」と別れた交際相手を表示してくることには慣れて心穏やかにやりすごすことができても、昨日のわたしの失敗をあざやかに突きつけられて「いや現在のわたしには関係ないことですから」と返すことができるほど 、図太い神経を持った人なんてほとんどいない。だから、昨日のささいな失敗は取り返しのつかない過ちになる。

ガジェットが指し示し、クラウドに保存された昨日の自分が/半日前の自分が/数時間前の自分が―――あらゆる過去の自分が、現在の自分と絶え間なく連続しているように感じてしまう。

だけど、ひっきりなしに過去の自分が飛び込んでくる生活なんて、ほんの15年前にはありえなかった。起床即、日記帳やアルバム(ぶあつい紙のアルバムだ)を開くなんて奇行でもしないかぎり、人は、眠って目が覚めたら、過去と断絶された新しい自分になっていた。ごく一部の有名人だけが自分の行動をこまめに記録されて、「連続した自分」の苦しみを味わっていた。彼らは時々恋や仕事に失敗して、自殺未遂をした。そういう時代から時が経ち、今やすべての人が、かつての有名人のような生活を送っている。

だから現在、「過去」はわたしたちにつきまとう幽霊のようだ。切り離したくても切り離せない。これはありふれた苦しみだ。みんな苦しい。でも、そんなことわかってる。わたしが知りたいのは、わたしの苦しみを無くすにはどうすればいいのかってこと。

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