自信のないわたしを支配する“神様”の正体/葭本未織

わたしを支配する『神』とは?

つい先月、入院していた時のこと。体の痛みと入院先の病院のクレイジーさによって、わたしの神経は極限状態に入り、幼い頃見た女の幽霊のことを思い出した。育った家に幽霊が出たなんてウソみたいな話だけど、わたしの感覚を信じるのもわたしだけだし、その感覚に従って行動できるのもわたしだけなんだ。と、直感した瞬間、わたしの世界は静かになった。これまで耳元でささやくようにまとわりついていた『他者』の声が、消えたのだ。

長い間、わたしの頭の中には『他者』がいた。それはけして「他人」ではなかった。「他人」は実体がある、生きている、各々が各々の人生を持っている。一方、『他者』は形が無い。姿はモヤのようにあやふや。わかるのは、『他者』は一人ではなく、いくつかの別個の生命体の寄せ集めだということだ。

「お前はいつでも、“わたしたち”の顔色をうかがわなくてはならない。行動や思考はもちろん、感受性すらも、“わたしたち”のものであって、お前のものではない。だからお前の一存で、傷ついたり、快楽を感じてはいけない。あらゆる感受に対して、いつも“わたしたち”にお伺いをたてること。そして“わたしたち”の望む範囲で、“わたしたち”に望まれたことをするように。」

この声はこだまのように、何度も何度も、わたしの頭の中で響き続ける。楽しいときも変わらずに。悲しい時はうるさいぐらいに。これが長年のわたしの頭の中だった。わたしと『他者』は平等ではなく、『他者』の方に圧倒的な正義や道徳的正しさ、そして決定権がある。彼らの言うことがきけないなら、命を奪われても仕方がない。わたしにとって『他者』とは「神」とも言い換えられた。

でも、こんなカルトな思い込みを始めたのは一体いつからだ? そして『他者』とは? わたしの中に形の無い神として燦然と存在しているあのうさんくさいモヤの正体は何なんだ? 
退院後、考えはじめた問いの答えが出ないまま、日々が過ぎたある昼下がり———この原稿を書いている最中、パンドラの箱があいた。『唯一神・他者』ともいえる存在を心の中につくりあげた原因のひとつは、小学校時代にあった

小学校高学年の2年間、わたしは一人の女教師にいじめられていた。彼女は「こいつの家は汚い」とクラスメイト全員の前で言ったり、反抗すると何度も「嘘つき!お前はまともじゃない」と晒し上げたりした。彼女のお気に入りだった乱暴な男子たちも、彼女にならってわたしをいじめた。わたしは無力な子どもだった。そんな状況下でできることといえば妄想だけだった。わたしは現実逃避に、「どうすれば攻撃対象から抜け出せるか」ということを考えはじめた。自分を害するものへ、ただ従うんじゃ、身心ともに押しつぶされてしまう。だったら、何か一つの特技を身に着けよう。こいつには何も言えない。そう思われるような特別な能力を、大人になったら手に入れよう———。

そしてわたしは「演劇」を手に入れた。これだけは他者を圧倒させて黙らせることができる。その能力が自分にはあると確信した。だから続けた。他にも好きなことはたくさんあった。絵を描くこと、歌を歌うこと。だけどそのいずれも、他者の口をつぐませられるほど「圧倒的」ではなかった。だから辞めた。わたしは強くならないといけない、もう二度と誰からも害されないように!

細かな雨が窓を叩き始めて、わたしの意識は過去から現在にかえってきた。すべてを思い出した体は震えていた。何もかもがつながった気がした。なぜ顔の無い『他者』が「わたしたち」という主語を持っていたのか。なぜ対外的に見ても自分自身で鑑みても満たされたような環境にいるようになっても、わたしから「承認欲求」が消えなかったのか。なぜ好きなはずの演劇を続けても幸福感や達成感が一度も無く、もっと・もっとと駆り立てられる気持ちに苦しんだのか。わたしはずっとおびえていたのだ!

雨足が強くなる。わたしはふらふらとベランダに出て、干していた洗濯物を手に取る。眼下では嵐を告げる強い風が防砂林を揺らしていた。少し遠くに見える海の上には厚い雲がかかっていた。浜辺には誰もいない。のろのろとした手つきのまま、わたしは考える———なぜ忘れていたのだろう? あんなにつらかったのに———言葉にすると力がぬけた。そのまましばらく生乾きのバスタオルを抱きしめながら突っ立っていた。すると、飼い犬がこちらを見ていることに気がついた。頼りない足でよちよちとベランダに出てくると、雨に打たれながらわたしを見た。だんだんとわたしの呼吸が落ち着いていくのがわかった。

「大丈夫」とつぶやく。わたしは今、自分の過去を正しく認識できたのだ。