わたしを支配する「他者に認められたい」という思考―百日紅の下で見た女の幽霊

葭本未織

 この病院に運び込まれてどれほどが経ったのだろう。
 真夏の昼下がり、歯医者の帰り。閑散とした高級住宅街の路上で倒れた。子どもの時に住んでいた借家の近くだった。わたしはレンガ敷きの道に横たわり、痛みで身をよじり、うつ伏せになった体を焼けそうな路温に任せたまま、しばらく一人でのたうち回った。騒々しい日射しに反して体は静かだった。胃も腸も音を立てていない。脂汗をにじませながらまばたいたとき、目の前にピンク色に染まる花の樹があることに気がついた。その瞬間、走馬灯のように閃いた。
なつかしい! あの百日紅(サルスベリ)だ!

子どもの頃のとある夏。この樹の根元に透明のチューブが刺さっていた。容器の中には鈍く光る液体が溜まっていた。おもしろがって手を伸ばしたとき、
「ダメよ、これは樹のお薬なの。」
そう誰かが言った。
「木、病気なの?」
「病気ではなくて……栄養剤、元気になるために必要なの。」
そう言ったのはいったい、誰だったか? 輪郭を探ろうと手を伸ばす。視界へ飛び込むわたしの二本の腕。よく手入れされた毛の無い肌、淡く染められた紅い爪が、宙に向かって伸びてゆく。陽炎の先で——腕は、よく似た花の樹と出会い、ふたつは溶けてひとつになった。
すべすべとして、ピンク色の、わたしは可愛い百日紅よ———。

けたたましいサイレンを鳴らしながら通行人の呼んだ救急車が来て、わたしは完全な眠りに落ちた。……それはいったいどれほど前のことだったろうか!
運び込まれた先は人里離れた山中にぽつりとある病院だった。検査が済むと「急性腹症でしょう」と曖昧な診断を医師はした。
「手術はいりません、食事ができるようになったら帰っていいですよ」
確かにそう言ったのに、この病棟ではいつまでたっても食事が出ない!
長すぎる絶食で思考も筋肉も衰えた。絶え間なく流れ込む点滴で何とか生き長らえている。痩せすぎた腕に注射の痕がいくつも残る。手の甲に射しこまれた透明の針。真新しい傷口が叫ぶので、はずしてくれと伝えるたびに、看護婦たちは微笑み言う。
「ダメよ、元気になるために必要なの。」
点滴棒にぶらさがる透明のパウチが鈍く光る。そこでようやくわたしは、自分が百日紅になったことに気がついた。

という掌編小説を、退院してから書いた。実際の顛末としてはこうだ。

道ばたで倒れ救急車で運ばれた病院は高齢病棟で、わたし以外の入院患者はさだめし平均年齢90歳。点滴につながれ小さく震える色白のお年寄りばかりだった。彼らは全員痴呆にさしかかっている。だから彼らが何か言うたびに、看護師たちは「困ったわねえ」という笑みを浮かべて首をかしげるのだ。……しかし数日経ち、よくよく会話を聞いてみると、お年寄りたちはいたって普通のことをお願いしている。看護師がそれを無視しているのだ!その対応はもれなくわたしにも適応された。治療の要望はすべてワガママとして無視された。わたしは絶食を余儀なくされ、24時間点滴につながれることとなった。

ある日、相部屋の96歳のおばあさんが家族に電話をしながら泣いていた。
彼女が電話をかけるまで、実に1時間半の看護師との交渉があった。看護師ははじめ、「もう遅いから」と実際よりもずいぶん遅い時刻を教えた。しかしおばあさんは諦めなかった。交渉は続き、ようやく願いは叶ったが、電話はたった3分で切り上げさせられた。電話が終わると、彼女は睡眠薬を投与されて眠った。

この病院はおかしい———前々から感じていたことが、その時、ようやく言葉になった。
考えてみれば、食事がとれるようになったら帰っていいと言っていたのに、いっこうに食事を出さない。やたらと高額の個室を薦められる。退院の日取りが毎日延期される。だけど……わたしがおかしいってことはないだろうか? 絶食が続いて、何もかもネガティブに受け取っているのでは? 
わたしは自分の感覚に自信がなかった。

その晩、浅い眠りから目覚めて、思い出した。子どもの頃に住んでいたあの借家には、幽霊が出たということを。
若い女の幽霊だった。長い黒髪が顔に垂れていて、その表情はよく見えなかった。首を斜めにかしげたポーズで、ときどき深夜に、ベランダの近くの窓際に立っていた。わたしだけでなく、父も弟もその姿を見た。父なんかは泥棒だと思い大声を出して電気をつけた。するとその女はフッといなくなってしまった。そういうことが何度かあった。
その借家は、阪神・淡路大震災で倒壊した家の跡地に建てられたアパートで、おそらくそこで亡くなった女の人だったのだろう、と家族で結論付けた。
この病院へ搬送される直前、道ばたで痛みに倒れ、百日紅を見た時、なぜだか彼女の黒髪が脳裏をよぎった。

わたしにとって自分の「感覚」というものは、幽霊と似ていた。つまりわたしにははっきりと感じられるが、他人には感じられない。だから、その存在を認めるわけにはいかない、というものだ。なぜなら、この世界はわたし以外の人———つまり他者で出来ているから。