傷つく自分を生き延びさせた防衛策

形の無い『他者』だと思っていたのは、あの女教師であり、調子に乗って追従しいじめてきた男子たちだった。あの女は生徒いじめを正当化するために、あたかも自分たちがマジョリティで、圧倒的な正義や道徳的正しさ、決定権があるように振る舞っていただけだった。そして子どものわたしはそういった態度をおかしいと思いながらも、抵抗すればするほど叩かれ、次第に力が無くなった。なんとか心を生き延びさせるそのために、「しかたがない、彼らは神様なんだから」と自分よりも高い位置に置くことによって、その傍若無人さを正当化しようとしたのだ。

神様がしたことだから仕方がない、と非常に日本人的な宗教観によって、わたしはいじめられた過去自体を忘れた。たぶんおぼえていたのは、中学生までだ。地元から離れた高校を選び、実家も引っ越したことで、彼らのことは頭から消えた。だけどふりかえるとちょうどその頃から、頭の中に『他者』———イマジナリーフレンドならぬイマジナリーエネミーが居座るようになった。そして女教師が何度も吐いた言葉の通り「自分はまともじゃない、絶対に誰からも愛されない厄介者なのだ」と思い込むようになったのだ。それがまるで世界のことわりかのように———。

「だけどねえ……」わたしは思考を声にする。
「今だからハッキリわかるけど、あの女教師も、男子たちも、ついでに言うと傍観してた他の人間もみんなクズだ! 頭の中の『他者』とは「神」でもなんでもない、わたしを害した人間からの呪いの置き土産だったんだよ!」
洗濯物をバッサバッサと部屋の中に投げ入れる。パンツやブラジャーが宙を舞う。元気になったわたしを見て犬はしっぽを振る。

「わたしはもう子どもじゃない。あれから15年も経った。酸いも甘いも嚙み分けて、色んな力を養った。自分を害する環境からさっさと逃げ出す足。攻撃的な人間を見抜く目。やられたらやり返す方法を考える頭。だからもう大丈夫。心配しなくて大丈夫なんだよ、わたし———。」

ぐるりと見渡したベランダの手すりのすみに、小さな女の子がいる。幻影だ。彼女は目に涙をこぼさぬように溜めている。それでいて「わたしは傷ついていない」と強がりで頬をふくらませている。いつからだろうか、ときたま視界の端に小さい頃のわたしがちらつくようになった。その影は濃い時もあれば消えそうに薄い時もある。決まっているのは実体がなく触れられないこと。だから、代わりにしゃがみこみ、犬を抱きしめる。そして呼び掛ける。

こっちへおいで。そんなすみっこで、ひとりで震えなくていいんだよ。これまでたくさん傷ついたね。もう大丈夫なんだよ、強がらなくて大丈夫、泣きたいときに泣いていい、君は本当に頑張った。君は必ず愛される、すばらしい女の子だよ、誰がなんといってもゆるぎなくそうなんだよ、と。

少女の幻影はおずおずと近寄ってくる。その小さな体の、みぞおちあたりにもたれかかった時、わたしたちはひとつになった。

頬に水滴が垂れている。わたしはぼんやりと風の音を聴いている。犬がクーンと鳴く。あたたかなその命を、残りの洗濯物といっしょに抱きあげて、雨のベランダを後にする。外はもうじき嵐だけど、わたしの心は凪である。とびきりのんきな凪なのだ。

Text/葭本未織