ぼくらはマンガなしじゃ生きられない

 少し長いが、前書きから引用しよう。

 筆者の勤める大阪大学のホームページには、研究者総覧があって、そこには教員が研究キーワードを三つずつ登録している。ぼくのそれは比較文学、セクシュアリティ、マンガだが、ある日、所属講座の主任が、大阪大学全体でマンガを研究課題にしている人がどれくらいいるか当ててみろと言う。ぼく一人ですかと聞くと、ニヤニヤしながら五人いると言う。へー、そんなにいるんですかとちょっと驚く。だが、この話には落ちがあって、主任も興味があって検索をかけてみたらしいのだが、実はマンガという検索語が「マンガン」を拾って、それで五人出てきたらしいのだ。
(中略)
 これには少し考えさせられた。そりゃ、マンガンの研究は大事だろう。電池か何かにも入っているらしいし。でも、ぼくらの生活との現実の関わり具合から考えて、マンガが一人、マンガンが四人というのは、いかにも不均衡じゃないか。ぼくらはマンガンなしでも(たぶん)生きていけるが、マンガなしじゃ(たぶん、きっと、いや、まあ、ちょっとは)生きられないじゃないか。
(ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』7ページ、太字引用者)

 私はこれを読んだときにも、「ああ、まさしくそうだ」と思ったのだ。
もちろん、ヨコタ村上の言っていることは、端的に間違いである。なぜって、「ぼくら」はマンガがなくても生きていけるからだ。ちなみにマンガンは人体の必須元素であるらしく、マンガンなしだと「ぼくら」はおそらく死ぬ(まず不足しないらしいが)。

 しかし、そういう無粋なツッコミを振り払って、「〇〇なしじゃ生きられない」と胸を張って言いたくなるときが、あなたにもあるだろう。控えめに言いかえても、マンガは「生きのびる」ことには必要ではないが、よりよく「生きる」ことを目指すとき、あるとかなり嬉しい。

AVなしじゃ生きられない

 そして私は、ヨコタ村上を真似て「ぼくらはAVなしじゃ生きられないじゃないか」と言ってみたいのだ。
もちろん、この宣言も端的に大間違いで、しかもマンガと比べて危険でもある。「ポルノは必要悪だよね~」といった、よく耳にするゆるゆるの結論にすぐ飛びついてしまうことになるからだ。AVに絡みつくもろもろの悪い面をなかったことにする、だいぶ能天気な宣言である。

 でもやっぱり、「ぼくら」はAVを観ている。姉妹サイト「TOFUFU」でもtinasukeさんが、「AVを見る人がダメ」という自身の結婚相手の条件をかんがみて「もしかしたら年収1,000万超えの人を探すより、AVまったく見ないという人を探す方が難しいかもしれません」と書いていた(参考)。統計的に正しいかどうかは置いておくとして、この感覚はかなり妥当だと思うのだ(逆に言えば、tinasukeさんの夫のような男性がいるのだから、「ぼくらはAVなしじゃ生きられない」という断言はやっぱり間違いなのだけれども)。

 そして、AVのもろもろの悪い面をどうにか改善しようとする場合も、AVのそういうもろもろの楽しい面をなかったことにして議論を進めるのでは不十分だと思う。
私に「なぜAVを研究してるの?」と聞いてくる人はよくいて、気持ちもすごく分かるのだけれども、しかしその言葉の裏に「何でそんなくだらないことを研究してるの?」「それが何の役に立つの?」という思いを貼りつけてくる人は、AVについて――というよりは「生きる」ということについて、表面的にしか考えていないのではないかと思う。
「だって、ぼくらはAVなしじゃ生きられないじゃないですか」。私が研究する理由は、ひとまずこれで十分だと思うのだが、どうだろうか。