この連載「東大院生のポルノグラフィ研究ノート」 は、始まったのが2016年4月5日だから、この記事が公開された翌日で1周年を迎えることになる。
最近まで自分でも気が付かなかったのだが、私はこの1年間、「視線」や「リアルゲイ」などテーマを変奏させつつも、ずっと「AVのリアリティ」について書いてきたのだと思う。
思い返せば、私がAVのリアリティに人一倍こだわりを持っているのは明らかだった。私が一度だけAV関係者にTwitter上でガチギレしてしまったのも、リアリティの受容に水を差されたからだった。そのエピソードを話す前に、もうちょっと一般論を語っておこう。
フィクションなりのリアリティ
さて、「AVはリアルだ」という言明はときに危険だ。震災AVの回で「いくつか留保を置くとしても、AVは『リアル』を捉えるメディアだ」と書いた「留保」とは基本的にそういうことだ。
AVが「リアル」なセックスのお手本として視聴されたとして、「はじめてのセックスで顔射する童貞」といったよくある滑稽話で済むのならまだいい。エスカレートして、初期AVの時代に顕著な「女はレイプでも感じる」といった最低最悪な思い込みが世間にはびこるのは、本来は何としてでも避けなければならない。
だから、AVが「フィクション」だ、と分かっておくのは、視聴者に必要不可欠なリテラシーである(けれども、それと同時に、対となる「本当のセックス」なるものが存在しないことは第3回で書いた)。
しかし、フィクションにはフィクションなりのリアリティがある。それはたとえば、「『シン・ゴジラ』はリアルだ」と言うときと同様の意味で、AVはリアルなのである。
ゴジラがこの世に存在しないように、今日日、ガチの素人女性がAVに出演することなどそうそうないと考えておいたほうが、余計な落胆がなくて精神衛生上よい。しかし、どちらも「もしも存在したら……」というifの世界のリアリティは、崩そうとしないのだ。