BLが教えてくれる友情と性愛の関係

「ホモソーシャル」とは何か。
詳しくは第6回を読んでもらうとして、ここでは簡単に説明しよう。

 何かへの「欲望」とは自分の内側から湧き出てくるものではなく、他者のそれを模倣することでしか手に入れられない。つまり、欲望の対象―他者―自己からなる三角形が存在する。
加えて、有名な人類学者が言うには、すべての社会は「女」の交換によって男たちが強く結びつく構造を持っている。
「欲望の三角形」「女の交換」の2つの理論を足し合わせると、「女」を欲望・交換のためのモノとしてのみ見る「女性嫌悪」と、男同士で欲望を向け合わないという「同性愛嫌悪」によって、現代の男性は安定的な「男同士の絆(ホモソーシャル)」を手に入れているということになる。
エロ本を回し読みする男子高校生たちが強い絆で結ばれているのはそういうわけなのだ。

 ちなみに「女同士の絆」が現代社会に存在するのか、というのは様々な議論があってここでは結論を出せない。
しかし、社会的には存在しなくても、理論的に存在するのは当たり前だ。説明のうちの「男」と「女」を入れ替えればいいだけなのだから。

 ここで重要なのは、ホモソーシャルとホモセクシュアル(同性愛)は、別物であっても連続しているということである。
たとえばBL(ボーイズラブ)の二次創作は、男同士の熱い絆をホモセクシュアルとして自然と「誤読」し、豊かな可能性を探る営みである。
「こんなに仲が良いんだからセックスぐらいしてないと説明がつかないよ!」というわけだ。

 お分かりだろうか、BLが教えてくれるのは、友情とは純度が高くなればなるほど性愛と見た目が酷似する、不思議な存在だということだ。友情の喪失だけがセックスを導くのではない。
したがって、友愛と性愛は、直線の両端に存在してどちらかを取ればどちらかを失う関係にあるものではない。
友情度が低いと思われがちな「セフレ」のような友愛と性愛の両立もあれば、BLのように熱い絆の裏側に幻のごとくセックスが透けて見える両立もある。

 だから思うに、「どうせセックスしちゃうんだから、男女の間に友情はないよ」と言う人は、セックスが好きなだけではなく、実は友情が好きなのだ。
だからこそ、同性との友情が混じりっ気なく純粋であることを信じており、異性との友情にセックス成分がたった数%混入しているだけで「ピピーッ! はい、それセックス!!」と取り締まるのである。
だが、同性との友情が性的でないと信じているだなんて随分うぶだ。

 友情というものは、そんなに純粋なものではないと思うのだがどうだろう。
鬼の首を取ったように、「女の子の友達に下心がまったくないって言える?」と尋ねる者がいれば、「言えるわけがない。しかし、私の無意識下に男への下心がまったくないと言うこともできない」と私は答えよう。両性愛者でもMSMでもないが、である。

 ある液体が「オレンジジュース」であることの条件に果汁の濃度が関係ないのと同様、「友情」や「愛情」、「性愛」であることの条件にセックス成分の濃度は重要でない。しかもファンタオレンジは無果汁じゃないか。

 さあ、私と友情の絆を結ぼう。だいじょうぶ、やさしくするよ。

Text/服部恵典

次回は <VHSの普及は、本当にAVのおかげ?――ビデオとエロの結びつきとAV前史>です。
「ビデオが家庭に普及したのはAVのおかげ」という話、AM読者のみなさんも聞いたことがありませんか?VR(バーチャル・リアリティ)技術への注目で一層聞かれるようになりましたが、それって本当なんでしょうか。この噂に作用していたのは、AVよりも前にとても意外な結びつき方をしていたビデオとエロの関係性でした!