「子供に将来、どんな大人になってほしい?」――マイノリティを受け入れることが“できない”側の物語

「どんな大人になってほしい?」という問いの暴力性

「(自分の)子供に将来、どんな大人になってほしい?」という問いは、その問い自体がけっこう暴力性を孕んでいるように思うことがある。

先日電車に乗っていたときに見かけたとあるマンガの広告では、母親である女性キャラがこの問いに、「(自分の子供には)仕事があって、愛する人と生活できる人になってほしい」と答えていた。そして、それに対して父親である男性キャラは「普通だけど、すごく重要なこと」とコメントしていた。

母親キャラクターのいう「愛する人と生活」はたぶん、結婚までいかなくてもせめて恋人と同棲していてほしいくらいの意味はあるのだろうし、そうなると現在ひとり暮らしの私は「普通の生活すら送れていない人」という烙印を押された気分になる。夫婦のほのぼのエッセイマンガの一場面なのであまり深く突っ込むのもナンセンスだけど、これを自分の実の親に言われたら、私はけっこうキツイ。

親が自分の子供に対して望めることってせいぜい「できれば親(自分)より先に死なないでほしい」くらいが上限なんじゃないか。実際の私の親は今のところ「警察の世話にはならないでくれ」としか言ってこないけど、私だって民主化のデモに参加して逮捕されるとかを将来やらないとは言い切れないので、これも親からの抑圧といえば抑圧である。まあ、実際に自分が子供を産んで親になってみたらまた違う心境になるのかもしれないけど。

ごちゃごちゃと書き連ねたが、今月私が読んだ本に、キム・ヘジンの『娘について』がある。主人公の「私」は夫を亡くした初老の女性で、高齢者の介護施設で働いている。そんな「私」のもとに、住む場所をなくした30代後半の娘が、しばらく同居させてほしいと転がり込んでくる。娘は1人ではなく、パートナーだという女性と一緒だ。この長編小説は、そんな「私」と娘の関係が描かれる。

「こうはなりたくない」と「こうなってほしい」

主人公の「私」は、特別に変わった人間ではない。働き者で、ずっと「善い親」であろうと努力を重ねてきた人だ。働いている高齢者の介護施設では、ジェンという女性を担当している。身寄りのいないジェンが受ける介護施設での非人間的な扱いに抗議する、実直な一面も持っている。

一方で、家にパートナーとともに転がり込んできた、レズビアンの娘のことが理解できない。娘がレズビアンであることを理由に、仕事の場からも排除されてしまったことが理解できない。「料理も掃除も上手なのに、なぜ結婚しないのだろうか。家庭を築き、子を産み育て、母となって社会的責任を果たす。そういう意義のある、胸を張れることをしようと思わず、なぜ無意味に時間とエネルギーを浪費しているのだろうか(p.66)」と悩み、娘と口論を繰り返す。

介護施設でジェンがベッドに縛り付けられていたことに抗議し彼女を守ろうと行動する姿、また娘の幼かった頃を愛おしく思い出す姿からは、決して「私」が思いやりがなく不寛容な人間であるとは読み取れない。ただ自分の娘に、平凡に、普通に生きてほしい。働き者で、「善い親」であるために努力を重ねてきたからこそ、「私」は自分たちの若い頃にはなかった価値観を受け入れることができないのだ。

「私」は、介護施設で非人間的扱いを受けるジェンに、自分の老後と、また娘の老後も無意識に重ねている。怒りを覚え施設側に抗議しながらも、「自分は真面目に家庭を築いてきたのだからこうはなりたくない」「“家族”と呼べる人のいない娘にこうなってほしくない」と思ってしまう。

「私」の思いがある意味ではとても親らしく切実であることはわかるが、「自分はこうありたい」の枠をとびこえ、他人(家族であっても他人)に「こうなってほしくない」「こうなってほしい」と願うのは、たとえそれがどんなものであれ、やっぱり少し暴力性を帯びるように感じる。

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