物書きという職業のいいところのひとつは、ヤバめの男とすったもんだの恋愛でぼろぼろに傷ついた場合であっても、その経験を原稿に落とし込んで、金銭に変えられることだと思います。「元を取った」と思えば溜飲も下がる。
とはいうものの、それは物書きだけの特権というわけでもない。マネタイズはさておいて、溜飲を下げることを目的とすれば、誰だって世間に向かって発信できるこの世の中、そう難しいことではありません。経験を書くということは、自分自身に向かい合い、客観的な視線で見つめること。そうすることで、反省すべきところは反省し、できる限りのことはしたと自らを肯定し、さらには読んだ人の共感や感想を励みとして、人生を前進する糧にできるのだから、皆どんどん、書いて、発表していけばいいと思うのです。
しかし、恋愛というものは大概の場合に相手があってするものだから、あまり赤裸々に相手のことを書いたり、また糾弾や誹謗中傷などを書き散らしたものが、当の本人の目に入ったりすると、それはそれで揉め事の種となる可能性もあります。法的措置を取られるだとか、自宅に殴りこまれたりだとか、そういうリスクもあるわけです。
書かれたくない男と書かれたい男
わたしが20代の頭に公開していたウェブ上の日記では、当時付き合っていた男性との性生活を赤裸々に綴っていて、しかもそれを共通の友人らはもちろん、その男性の仕事先の人々にまでも知れ渡っていたものだから「お願いだから書くのは辞めてくれ」と再三頼まれたし、時には言い合いの喧嘩になることもありました。
けれども「わたしが書きたいことを書いてるんだから、邪魔するな」といってまったく彼に忖度することなく、バックでイタしたとか、アナルに挑戦したとか、別の男にフェラチオしたのがバレて大喧嘩したなどと綴っていたのだから、相手が相手であれば、パソコンを投げて壊されるくらいの目にあっていたかもしれません。
一方では書かれることが好きな男性もいます。こっちは一見、“書きたい女”からすると都合いいふうに見えて、実はそれは大間違いなのです。というのも “書かれることを許容している”のならともかく、むしろ積極的に“書かれたい”ということは、“俺の思う俺のことを、俺に代わって世間に知らしめてほしい”ということ。
ゆえに書いたものに口を出してくるし、自分の気に食わないものは書かせてくれない。“書かれたい男”の支配下にいる限りは、極論、その男性が望むものしか書けなくなってしまう。さらには“書かれたい男”は、俺以外の男が書かれることにも嫉妬しがちです。だって芸術家のミューズもとい、アポローン?であるのは自分のはずなのに、そこに別の男に横並びされたら、たまったものではない。
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