その後、何回かわたしたちは千鳥ヶ淵を渡った。桜の花が散り、水面が茂った緑色になる季節まで。わたしはいつも彼の車で眠った。それは短い春の恋だった。ありきたりな若い男女の物語だった。

あれから何年たったろう。わたしはタクシーの中で足を組み替える。それなりに大人になり、繊細な感受性で夜の眠りが邪魔されることも無くなった。懐かしく思いながら窓の外を眺めていると、運転手があわせたFMラジオから歌が流れてきた。あの歌だった。

「神様ほんの少しだけ 絵にかいたような幸せを わけてもらうその日まで どうか涙をためておいて」

パーソナリティは、この曲を歌っているのはくるりというバンドで、リリースは2011年、離れ離れになった幼い兄弟が再開する映画の主題歌だと教えてくれた。タイトルは『奇跡』だった———。

今ならわかる。わたしが君の車で眠れたのは、目を閉じている間、君がわたしを見つめていてくれたからだ。わたしをわたしにさせる世界、壊れやすい宝物。それを見張る門番をほんの一瞬、君が肩代わりしてくれていた。銀色の車はわたしのシェルターだった。

まちがいなく、奇跡だったと思う。短い季節。誰かを心底信頼し、安心してこの身を預けた日々。わたしの世界を、君が守ってくれていた。
黒い車が千鳥ヶ淵を渡る。あの日と同じように、堀には恋人たちがボートにのって浮かんでいる。

もしもこの国を動かすような人たちが見たら、わたしも、彼も、あの恋人たちも、特別なところは何も無いように見えるだろう。有象無象の集団に過ぎないと。けれどそんなありきたりな要素が、無数に組み合わさることで、≪わたしたち≫はできている。そんなわたしたちが複雑に絡み合い、相互に作用することで、この≪世界≫はできている。

これはまぎれもない真実だ。どんな大災害が起こっても、わたし自身が目を閉じたとしても、決して失われることはない真実だ。ましてや、あなたたちが「取るに足らない」と軽んじたとしても、必ず存在し続ける。たった一人のかけがえのないわたしは此処にいる。そんなわたしたちの集体こそが≪世界≫なのだ。いい加減、目を閉じるのはやめろ。

首都高速に桜がふりしきっている。来年も同じ景色を観れるようにとわたしは祈る。祈りとは決して受動的なものではなく、未来を信じて、言葉を紡ぐことである。

Text/葭本未織

初出:2020.04.16