わたしは痛みこそが≪愛すること≫だと勘違いしていた。はじめて眠れたあの春の日/葭本未織

桜咲く木の下で写真に映る葭本未織さん

窓を開けると勢いよく花びらが舞い込んだから、愛想のよいタクシー運転手が笑った。首都高速に降りしきる桜。眼下に流れる千鳥ヶ淵を眺めながら、「前に同じ光景を見たことがある」と、わたしは数年前の春の日を思い出した。

その頃、わたしは上手く眠れなくて、夜というのは襲い来る≪恐怖≫と闘うための時間だった。その恐怖とはこうだ。

誰しにも、その人をその人たらしめている要素というのがある。例えば、女であること。地方の生まれであること。今は東京に一人で住んでいること。ご飯を食べるのが好きなこと。運動するのが嫌いなこと。長く眠らないと元気になれないこと。仕事が好きなこと。
このような一つ一つはさして特別じゃない要素が、無数に組み合わさることによって固有のわたしを創り出す。誰にでも当てはまるようなありきたりな要素が、複雑に絡み合い、集体となってわたしの世界をつくっている。 けれど目を閉じて眠っているあいだに、そうした≪わたしをわたしにさせるもの≫が突然失われたら?

ありえないとは言い切れない恐怖だった。当時は東日本大震災からたった数年しか経っていなかった。一瞬ですべてが変わってしまったあの光景を目の当たりにしてから、わたしにとって≪世界≫というのは不滅ではなく、すぐに壊れてしまう水晶細工なようなものになった。

宝物には、それを見張る門番が要る。壊れやすい世界がきちんと持続してゆくように、わたしは常に目を見開いていないといけない。わたしをわたしにさせるものが、何一つ、こぼれ落ちてゆかないように。

そう考えると夜は長い闘いの時間になり、わたしは一睡もできないまま朝を迎えた。そんな夜を何度も重ねたある日、銀色の車を持った男に出会った。

その男はどうにもピンとこない男だった。悪いところは一つも無いのに、「真新しい車が浮いている」と感じてしまうような男だった。しかしどうやらその男は、わたしを≪愛≫しているようだった。それが何とも言えない居心地の悪さを生み出した。

時々、不安に襲われた。このままでは男のとてつもない≪愛≫に飲まれてしまうのではないかと。頭からすっぽりと包み込まれて呼吸ができなくなるのではないかと。この気持ちはつまるところ、わたしはまだそこまで男のことを≪愛≫していない、という証明だった。