「君」という宝を投げ出すなよ
「幸せ」という単語に対してぼんやりとしたイメージがある。それは花の色をした綿菓子の中心で眠る、砂糖細工の眠り姫だ。
わたしが生まれた時、母親は「なんて小さく可愛いらしいお姫さまが生まれてきたのだろう」と涙を流したらしい。それを何度も聞いたよと思うころには、わたしは共働き家庭の長女になっており、入っていた児童劇団のわりかしスパルタな教育方針もあってか、泣くとか泣かないとかで物事は進んでいかないんだよ! と、啖呵を切るようになってしまっていた。
切る相手は、心の中の泣き虫な自分だ。わたしはそいつが嫌で嫌で、できるだけ押し込めて、出てこないようにさせて、時には、泣けば泣くほど事態は悪化するんだぞ! と脅したりして、自分を自立させてきた。
そうこうしている間にいつのまにか、表面的には「自立した女性」を理想としながらも、もしもなれるものならば、その真逆の何にもできないお姫さまになりたい、と思うようになってしまった。その姫は、綿菓子の天蓋を静かに開いて覗き見ると、いつも・朗らかに・笑っている。瞳を閉じたまま。眠ったまま。だらりと手足を伸ばして。姫の顔はわたしだ。
だけど、わかっている。それは幸せの「イメージ」であり、「実体」ではない。
◇
いつも演劇の中で、ヒロインたちよ、幸せになってほしい! と願う。幸せとは綿菓子の中の砂糖細工になることではない。いつか溶けて無くなってしまうやわらかな繭から飛び出して、つらいこと、苦しいこと、悲しいことをたくさん経験することだ。それは、君が自分の人生を手に入れるきっかけになる。
明後日、3月22日から24日まで阿佐ヶ谷アートスペースプロットというところで『永浜』という新作演劇を上演する。前の連載にも少し書いたけれど、ホラーだ。「わたしさえ我慢すれば……」と耐えに耐えた老婆の苦しみが呪いとなって若者たちを襲ってゆく、琵琶湖のほとりの地獄絵図演劇である。この作品を書き始めたのには二つ理由がある。
一つは、ハタチの時ヒロインを演じた舞台『女の一生』の影響だ。戦中に書かれたこの作品はヒロインが様々なものに縛られ、苦しみ、そのまま終わってゆく。これが本当に「女の一生」だとしたら耐えられないと、ハタチのわたしは感じた。けれど数年後、ふと振り返ってみると、ヒロインのたどった道と自分の人生が似てきたことに気がついた。それはわたしが知らず知らずの間に「我慢」を覚えたことに繋がっていた。
そしてもう一つ。昨年、100歳を超えた曽祖母が亡くなくなった。わたしの手元には19歳の頃の彼女の写真がある。いつも・朗らかに・笑っていた、彼女の本当の過去をわたしは知らない。けれど一つだけ言えるのは、有名でなくとも、逸話にもならなくとも、一人の女性が歩いた後には「道」ができるということだ。それはその人だけの道ということだ。……たとえ、どれだけ不本意に動かされ、無理やりに浮かび上がらされた道だとしても。
◇
ヒロインよ、わたしよ、そして君よ。「君の道」を歩けよ。
世間体や常識に飼いならされるなよ。飛び切りわがままに生きろよ。その代わり降ってくるとてつもない孤独もまた、そこそこ味わうと良いよ。
責任を取ると良い、自分の人生に。思いっきり取ると良い。取れば取るだけ、人生は君の手の中にゆっくりと入ってくる。
決して投げ出すなよ。「個人」という君の宝物を、投げ出すなよ。
『女の一生』を演じた時、なぜこの女は個人を投げうってしまうのだろうと考えた。それはきっと、他のために個を喪うことが、長らく美徳だっただからだ。犠牲こそ、女に求められた美しさだったからだ。そうして女は、個から、妻や母という家の柱になっていった。家族はその美徳を享受した経験が必ずあるはずだ。けれど投げ出されたものは、決して望まれたものではないので、大切にはされない。
だから伝えたい。投げ出してはいけない。君の宝物を投げ出しても、君が誰かの宝物になるということはないのだよ。
君が振り返った時、ぼんやりと見えるその道は、唯一無二。君だけの道だ。誰かの道と似ていなくて良い。君だけの一本道を、君がまっすぐに走っていけるように。