寂しさは温かいお風呂に入っても解消されない肩こりのようなもの――ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』

by ᴇᴍɪ

「『肩こり』ってのが何なのかよくわからない」って人に、たまに出会うことがある。いますよね? 小学生の頃から万年肩こり持ちの身としては羨ましい限りだけど、そういう人はおそらく、血行がめちゃくちゃいいわけでも肩こりがまったくないわけでもなくて、本当はある肩こりを、自覚していない人たちなんだと思う。そして最近、私にとっての「寂しさ」も、そういう人たちにとっての「肩こり」と同じなんじゃないかと考えるようになった。

私は普段の生活で、「寂しい」と思うことがほとんどない。しかしそれは落ち込んでいる瞬間や1人で不安を感じている瞬間、寂しい瞬間がゼロなわけではなく、おそらくは、他のことのほうが気になっていてあまり自覚していなかったり、痛みや辛さに対して心が鈍感なのだと思う。まあ、わざわざ自覚して「寂しい」を感じるメリットがない気がするので、別にこのままでいいやということにしてるんだけど……。

そういうわけで、私は「孤独だ」とか「寂しい」とかを普段ほとんど感じない。でも、そういうセンサーがまったくないわけでも、たぶんない。だから、ルシア・ベルリンの短編集『すべての月、すべての年』に書かれていることなどは、これでもけっこうよくわかるのだ。

様々な仕事を転々とした著者の経験から来るリアリティ

『すべての月、すべての年』の著者であるルシア・ベルリンは、1936年にアラスカに生まれ、3回の結婚と離婚を経験し、4人の息子をシングルマザーとして育て上げたという作家だ。以前この連載で、同じく短編集である『掃除婦のための手引書』も扱ったことがある。どちらも底本は『A Manual for Cleaning Women』で、これで収められた43篇がすべて日本語訳されたことになるらしい。そのため、本書も『掃除婦のための手引書』と大きく趣きが異なることはない。

教師、掃除婦、電話交換手とさまざまな職業を転々とし、自身もアルコール依存症に悩まされたというルシア・ベルリンの目線は、相変わらずとてつもないリアリティがある。本書に収められている短編の『ミヒート』なんかはおそらく、著者が看護助手だった頃の体験を元に書いているんじゃないだろうか。赤ん坊を抱えた10代の若い母親が主人公の前に現れるが、この10代の母親は恵まれた環境で育って来なかったためか「感情の鈍麻」が見られ、常にぼーっとしているように描写されている。すごく生々しい。彼女はもちろん子供への愛情がないわけではないのだが、常にぼーっとしていてだらしなく見えるので、周囲の大人から適切な援助が受けられないのだ。

『ミヒート』も印象的ではあったけど、私がこの短編集の中で特に好きだったのは『友人』と『B・Fとわたし』の2つである。

『友人』は、主人公が高齢の夫婦の命を救ったのをきっかけに、その夫婦と親しくなっていく過程を描いたもの。しかし、何かと不自由な高齢の夫婦の世話をしてあげていると思っている主人公に対して、一方の夫婦は、独身で友人のいない主人公の話し相手になってあげていると思っているらしい。互いの「してあげている」が徐々にぶつかり、ベールが剥がれていく様子に、やっぱりすごく生々しさを感じる。