あの哲学者たちも不倫していた

ところで、『全体主義の起源』『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』などの著作で知られ20世紀を代表する哲学者とされているハンナ・アーレントもまた、「不倫」をしていたことで有名である。相手はあの、哲学者のマルティン・ハイデガー。2人が出会ったとき、学生のアーレントは18歳、大学で教師を務めていたハイデガーは35歳で妻子持ちだった。18歳にとっての35歳なんておっさん以外の何者でもないが、ハイデガーは当時ノリにノったイケイケの哲学者だったらしいから、きっと魅力的だったのだろう。
2人の関係は1年ほどで終わったというが、その後ユダヤ人であったアーレントはドイツ国外へ亡命し、一方でハイデガーはナチスに傾倒していく。恋愛、哲学、思想、歴史をめぐって、2人はその後も数奇な運命をたどることになるのだ。このアーレントとハイデガーの悲痛なエピソード、私はけっこう好きである。

「凶悪とは違う──ガラスケースの中の幽霊みたい、風邪ひきのね。不気味とは程遠い、平凡な人よ」

映画『ハンナ・アーレント』で、主人公のアーレントは、ナチス親衛隊将校アドルフ・アイヒマンの姿をその裁判で目撃したあとに、彼を評してこう述べる。

いくら「不倫は絶対的な悪である」とはいえ、数百万人のユダヤ人を残虐な死に追いやったアイヒマンの罪と、私たちの周囲にはびこっている軽率な不倫とでは、重さが全然違う。だけど、アーレントがアイヒマンを凶悪な人物ではなくあえて「平凡な役人」と評したように、不倫も同じだ、と私は思うことがあるのだ。
人の道に外れた行ないをしている彼らは、いったいどんな悪人面をしているのやら――と周囲の不倫カップルの顔を覗き込むと、彼/彼女はだいたいの場合、善良で平凡な顔をしている。必ずしも覚悟があるわけじゃない。たいした悪意すらないこともある。むしろその、人としての弱さから、ありふれた凡庸な物語に堕ちていくだろう。

正解で片付けられない、不倫という「凡庸な悪」

「私が望むのは、考えることで人が強くなることです。危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬようにすることです」

映画では、アーレントが大学の講義で学生たちを前にして行なう8分間のスピーチが、観る者の胸に迫る。
上のセリフはもちろん、たくさんのユダヤ人を強制収容所送りにした「人類最大の罪」を今後いかにして繰り返さぬようにするかについての、アーレントのコメントなわけだけど――身近な出来事についても、この言葉は考えさせられるものがある。
不倫は絶対的な悪である。だけど、多くの人間は善良で凡庸であるからこそ、自分でも気付かぬうちに悪事に手を染めてしまうことがある。不倫なんてどんな事情があっても言語道断と、「正解」を容易く出すことは簡単だ。だけど自分や周囲の人間がその状況に陥ったとき、本当にできるのは、破滅に至らぬよう、ただ考え抜くことだけなのだ。

実は身近に、私と他に、数人しか知らない不倫のカップルがいる。彼らは、女性のほうが結婚していて、男性のほうが未婚である。2人の幸せそうな顔を見ると、私は彼らを責めることも応援することもできない。ただ、考え抜いてくれと、そんな頼りない言葉を、私はすべての不倫カップルに送るばかりだ。