アラサーになり、今のわたしならできる!

しかし、数年後の26歳。「今のわたしなら、腋毛を晒して外を歩くこともできる!」と突然に、思い立ちました。アラサーを迎え、「いまさら、どういう人だと思われてもいい」という開き直りを得たのです。今こそ、かつての夢を叶えるときだ……と、伸ばし始め、そうして夏を迎える頃には、わたしの脇の下には、しっかり黒々とした茂みが出来たのです。

もっとも、腋毛を生やすのと、それを人様にあえて見せびらかすのはまた、話が別です。なので、最初は遠慮がちに、「隠してはないけど、わざわざ見せびらかしているわけでもない」というスタンスでおとなしくTシャツを着て過ごし、ちらりと脇をあげたときなどに「あっ、見えちゃいました? いま、腋毛を伸ばしてるんですよ」などと、少しずつ周囲に広めました。

やがて当時バイト先だった出版社にも、堂々とノースリーブで脇の見える服を着ていくようになり、やがては腋毛をチラチラさせながら来客にお茶を出すまでに至ったのです。オフィスカジュアルにもほどがある。

赤の他人が腋毛について言及してくることは、ありませんでしたが、親しい人の中には口を挟んでくる人もいました。「腋毛を生やすんなら、その生やすところを毎日動画なり、写真に撮れば売れるよ!」と教えてくれたのは、フェチ系サイトの管理人です。

また、母親に会ったときは「なんだか淫乱みたいだから、剃ったほうがいいわよ」と注意を受けました。そのときわたしは「それはそういうAV女優の人がいたからでしょ? わたしはジュリエット・ルイスのインスパイアだから」と返したはずです。が、今年の夏、『全裸監督』を観て、その返しは大間違いだったことに気が付きました。

腋毛は彼女にとって自由の象徴だった

『全裸監督』では、腋毛はAV女優としての売りではなく、彼女の“自由でありたい”という気持ちの象徴として描かれていました。「AV女優で、テレビにも出て、なんだか面白いキャラクターの人」としか認識していなかった彼女のことが、突然に生々しい一人の女性として立ち上がってきたのです。ああ、ジュリエット・ルイスと、あの女優さんと、わたしは地続きではないか。

しかし問題は、フェチサイトの管理人がいうように、自由の象徴としての“腋毛”でさえも、うっかりすれば消費されることです。けれども消費されることを恐れて、萎縮するよりも、自由を高々と謳歌するほうが、人を恨まず自分に卑屈にならずによっぽど前向きに生きていけると思うのです。

ちなみにアラフォーも後半に差し掛かかりつつある今では、“面倒くさい”という理由で、気が付けば、うっかり腋毛が伸びがちですが、「もう、毛なんて、あってもなくても、どうでもいいや」という、別の意味での自由が手のうちにあるのもまた事実です。

Text/大泉りか