子どもをあやしてあげるべきか……

悲しげな泣き声にどうにも後ろ髪を引かれて、自転車を止めました。通勤時間帯は過ぎているとはいえ、まだまだたくさんの人が歩いています。しかし、誰もが女の子の乗ったベビーカーを素通りしていきました。

みな急がしいのだろうし、そもそも、幼児に話しかけるのって、少し勇気がいります。「変質者に間違えられたらどうしよう」とまでは考えずとも、「もっと泣かれたらどうしよう」「帰ってきた保護者に、余計なことをしたって怒られたらどうしよう」くらいは、同じ子持ちであるわたしでさえ思います。

けれど、明らかに、彼女の泣き声には怒りではなく、不安が色濃く滲んでいるのです。誰かが寄り添ってあげれば、きっと泣きやむことでしょう。わたしは子乗せ自転車に乗っているので、都合のいいことに、周囲から過剰に警戒されることはありません。

ためらいもありましたが決意を固め、おそるおそる彼女に近づきました。「どうしたの?」と尋ねたところ、首をぶるぶると振って「ママ、あっち」と20メートルほど先にあるコンビニを指さします。

うん、たぶんコンビニじゃないよね。うちの息子も、夫のいる方向とはまったく違い方向を指さして、「パパ、あっち」とよく言っています。

微笑ましさを感じながら「ママ、早く戻ってくるといいね」などと話しかけていると、雑居ビルの階段から女性が駆け足で降りてきました。わたしの姿に気がつき、泣きやんだ彼女と見比べて、「あっ、ありがとうございます」と頭を下げられたので、「いえいえ。じゃあね!」と、そそくさとその場から立ち去ったのでした。

パートナーと仲良く暮らすための鍵

ああ、それにしても、人に親切にすることは、なんとハードルの高いことなのでしょうか。道端で泣いている赤ちゃんに話しかけるのでさえ、これほど悩むのです。

こういう時って、今までどうしてたっけかな、と考えてみたけれど、困っている人が目に入ることがそもそもなかったのかもしれません。そしてわたし自身も、見ず知らずの人の手を借りるような状況に陥ったことは、あまりなかったように思います。電車の中で老人に席を譲ったり、次の人のためにドアを押さえておいたりするのは、マナーとして身についているだけであって、そこに親切心があるわけではない。

自分がいかに殺伐と生きてきたのかを思い知って、愕然とします。自分が、子連れという助けを必要とする立場になって初めて、世の中の助けを必要とする人の存在に気がつき、困った時に手を貸してもらえることがどれだけありがたいことかを知りました。

そして、実はパートナーと仲良く暮らしていくときも、「親切心」こそが鍵になるのではないでしょうか。というのも、「あなたに優しい」のは愛や恋で、これは冷めたり擦り減ったりするものです。しかし「人としての優しさ」、つまり親切さというものは、その人の素質。変化しがちな感情とは違い、年月が経っても変わりにくいものです。

だから、恋人がデートを中止して人助けに走ってもそれでいい。むしろあなたの見る目は、間違っていなかったってことだと思うのです。

Text/大泉りか

初出:2018.10.13

次回は<「良いママ」の呪縛から逃れられない……粉まみれの母子の写真の謎>です。
Facebookで友達がシェアしていた投稿には、粉で顔が真っ白になりながら、顔を見合わせて笑う母と子の写真。いったいこれは何? と思いながらリンクをクリックすると……。母親像を壊したくても縛られたままの女性の姿が見えてきました。