もちろん女性差別には大反対だけど一瞬だけ躊躇してしまう理由

もちろん女性差別には大反対ですが、声高に叫ぼうとするときに、ほんの一瞬だけ躊躇してしまうのは、わたしは女であることの特典を最大限とまでは言わないまでも、そこそこに利用して、生きてきたからだと思います。

といっても、その特典は若さや女の身体と引き換えに手にするものだから、それを“実は搾取されていた”と表現する人もいるかもしれません。しかし男性の欲望につけこんで、一瞬だけ身に着けた三枚千円のショーツと引き換えに一万円札を手に入れることも、言い換えれば“男性を搾取している”となるのではないかと思うのです。

「俺たちを散々搾取しやがって」と言われたとしたら「だって、それでも欲しかったのでしょう?」と返しますが、結局のところ、若さや女の身体を金銭とトレードしたことが、いま傷や生きづらさにつながっているか否かが問題であって、わたしにとってはそれらのことは、ヤンキーの武勇伝よろしく、狂乱の楽しき想い出で、今のわたしを築いている大切な根幹でもある。

男女平等とはなにか

さて、女の子たちがそういう手段で稼いでいた時代、同級生の男の子たちの中には「女は、簡単に金が作れていいよなぁ」と、あからさまに羨む者もいました。もちろん今でいうママ活のように、男の子であっても、年上の女性と援助付きの交際をすることもできるし、実際にそういう男友達もいたけれど、援助交際に勤しむ女子たちに比べれば、やはりものすごく少数であることは事実です。

もっとも、少数とはいえゼロではないのだから、やりたいのならば、四の五の言わずにヤレばいい……ということを、桁違いのニーズがある女性の身からいうことは、ちょっと無神経に思え、だから、言えることがあるとすれば「やる気なら、応援するよ!」でしょうか。

そういえば、「俺が女だったら、絶対にオヤジとヤって金稼いでるわ」と言っていた男友達と将来の展望を話していた際、「結婚しても子どもが出来ても、仕事はし続けたい」と言ったところ、返ってきたのは「そもそも働かないという選択肢があることが羨ましい。俺なんてずっと働きたくなくても、働くしかないんだよ」という言葉でした。そのときに、「働かない道を選ぶなら、応援するよ!」と言えなかったことを思い出すと、いまだに、なんだか喉奥から、苦い味がこみ上げてくるのです。平等とはなにか。

Text/大泉りか

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