銃を持つ人、持たない人
暴力と一生無縁な人もたくさんいる一方で、暴力と隣接した悪循環を生きる人もいる。
表沙汰になるケースなんて氷山の一角だけど、たとえば加害者が著名な歌い手であれば、これまで提示してきた“生き様”を世間から疑われることは避けられない。心を動かし、影響を与えてきた実績があれど、二度と説得力を持たないことに成り下がる。
致命的だ。安易に想像できる。
しかし同時に、無自覚な予備軍の存在も思い出す。
それは某アーティストグループのラジオをたまたま耳にした時のことだった。
若い彼らはケンカについての自論を展開していた。
「…あれ、女に手を上げちゃう奴って何なんだろうねー?」
『わっかんない、無理だよなー。でもさぁ、たまにムカツク女いるよね』
「あぁ、殴れるもんなら殴れば!? みたいな勢いで捲したててくる女でしょ?(笑)」
『そうそう! そういう女には分からせなきゃって思うよね』……。
プツン……
私はラジオを切った。
「分からせる」とは……??
まるで女は従順でなければ認めない、男に刃向かう女は殴られて当然、そんな物言いに呆れたのは言うまでもないが、こんな会話をラジオで流すほど自覚のない彼らが影響力を持っている現実にショックを受けた。
実際に暴力を振るうかは別として、完全に要素は含んでいる。リスクを意識し理性を保てる内は良いが、いつ目覚めるかも分からない暴力性も確かに孕んでいる。
きっと彼らは、DVが表沙汰になった案件を前にしても、自分自身が引き金に手をかけている銃の存在に気が付かないんだろうな、と……。
力で捩じ伏せたい衝動の正体がいかに未熟な精神か、己の内側を見つめる必要がある。何かのきっかけで転げ落ちる前に。
経験によって生まれたアンテナが、“決して他人事ではない”という危機感を受信するようになった。
閉鎖的な暴力のループに陥ってしまうのには、自己肯定感が大きく影響する。暴力はあらゆる自尊心を奪うが、自己肯定感が低いと劣悪な環境下すら抜け出すことが難しい。
“私の人生こんなもん……”そう思い込んでしまうのだ。
陥ってしまったダークサイドから這い上がる時の合図になるものは、「ここは私が望んで生まれた星じゃない」といった潜在意識が示す拒絶反応だったりする。
無縁だったはずの影に飲み込まれた時、私が幸せであることを望んでくれている人たちは喜ばない。そんな後ろめたさが光にもなった。
生まれついた星のもとは選べなくても、望んだシナリオを持って生きることはできる。
ある人は言った。“言霊を生かすことは争いを生かすこと”だと。
言葉が暴力のきっかけになる事例は止まないが、私たちはなぜ言葉を持って生まれたのだろう……といつも考える。
それはもしかすると、“銃を手放すため”なのかもしれない。
言葉で突き刺すことができてしまうように、言葉で抱きしめることだってできる。
そんな言葉の使い手でありたいと、過去を振り返って思うのだった。
Text/椿
初出:2019.02.07
次回は<毒を盛ってクールに立ち去る。そんな表現だっていいじゃない/椿>です。
「他人は変えられない」という言葉、本当にそうでしょうか?ラッパーの椿さんは、伝えることを諦めずに何度でも「No」を突きつけます。後からじわじわ効いてくる毒のように、一欠けの言葉だけでも刺さりますように。
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