「死ぬのは怖くない」そう思っていた

私自身は、いつ死んでもいいと思っている。仮に私が死ぬとしたら「ああ、もうどうでもいいや」と思った末の自殺か、婦人科が嫌いである故の女性器官系の病気なんだろうとなんとなく考えている。

去年、職場であり得ない量の不正出血に見舞われたとき、ICL手術で一瞬だけ何も見えなくなったとき、「まあいっか」と思っていた。そういえば、車に思いっきり轢かれたときも父親にボッコボコに殴られたときも海外で拳銃を向けられたときも、なんとなく冷静で、「これで死んだら結構ウケるかもしれない」「変な死に方のほうがネタになるのではないか?」「仲のいい人たちは面白がってくれるかもしれない」と思っていた自分がいる。自分と死そのものの距離感が遠いのかもしれないし、「死」という現象そのものを理解しきれていないのかもしれない。もういい年齢なのにね。
別に死ぬのは怖くない。痛くなくて、苦しまないのであれば。今この瞬間に死んだって構わない。むしろ希死念慮はいつだって心のどこかにはあるのだから、楽に死ねるのなら今すぐ人生を終えてしまいたいとすら考えている。

私には、今すぐにでも死んでしまいそうな美しい友人がいる。彼はとても気難しく、私の理解を超えたことにいつも思考を巡らせていて、「俺が自殺をしたら、それは望んだ死なのだから、悲しまないでほしい」と言う。私はそうかもしれないと思っていた。自ら死を選び、実行に移すのだから、それはある意味で幸せなことなのかもしれないとすら考えていた。

でも、それはきっと違う。祖母の死を受けて、今までの浅はかな考えを訂正したい。頭と心はまた別の部分にあって、死という現象に対する理解と悲しみには距離がある。それがどれだけ安らかな死であっても自らが望んだ死であっても、私は悲しい。「悲しい」という言葉では表現できないくらいの喪失感が胸のなかにあって、ふとしたときに何か真っ黒で大きなものに襲われそうになる。

きっと、自分も死んだら誰かをこんな気持ちにさせるのかもしれない。いや、できればそうであってほしい人間関係を築くのも、人と立ち入ったコミュニケーションを取るのも得意なほうではないし、関係の深さで死の悲しみが決まるのであれば、悲しんでくれる人はこの世界のどこにもいないかもしれない。

それでも、死は悲しく、空しく、どうしようもなく寂しい。死んでしまえば、こんな気持ちになることも、悲しみの在り処を知ることも、自分の感情をより深く知ることもきっとなかった。生きていることは、とても辛く、ふとしたときに辞めてしまいたくなる。それでも、死を弔うこと、悲しみに暮れ続けることは、生に対する実感のひとつなのだと思う。

TEXT/あたそ